兵員輸送船である富士丸は、徳之島の東方でアメリカ潜水艦の雷撃を受け沈没する。将兵4600名中で約37100名が死者となった。県庁職員の家族206名を鹿児島に疎開さす。2回目、巡洋艦「長良」から「小包トドイタ」と電文によって連絡される。その後、天草洋上で沈没する。本土への海は、すでにアメリカ潜水艦の棲みつく海になっていた。
1944(昭和19)年8月21日午後7時に出港する。船員120名と学童700名を含む1680名の疎開者である。船体に高々とそびえる梯子があるも、乗るのに揺れて危険だった。甲板に這い上がった者の顔から血の色が失われた。比嘉儀一は梯子が1つしかない船倉に閉じ込められるより、甲板上の方が危険が少ないと判断していた。母は教師で「中に入りなさい」と、誤って海に落ちることを恐れて甲板上に出ることを禁じた。一等運転手から緊急時の避難方法の訓辞を受ける。
船が不意に之の字運動を続ける。異様な音響が起こり、得たいの知れぬざわめきが、体を包む。弟の手を取って甲板上に駆けた。船がかなり傾いている。内部からすさまじい叫び声が吹き上がっている。梯子を登ろうとする人々が争って、登りかけた者の体を他の者が引きずり降ろし、つかみ合う。2発目の魚雷が命中、水柱が高く上がる。数名の女子学童がしがみついて来た。異様な恐怖を感じる。3発目が命中する。折り重なって倒れた。「飛び込め」という叫び声が上がる。4発目の炸裂音がして、船は中央から裂けた。気がついて海面を見ると、救命衣を付けた死体ばかりで、死者の海と化している。50m前方に激しく動く人の群を見た。竹を組み合わせて作った筏であった。目を怒らせた人々の体で固く包まれている。木箱を押して、潮流に身をまかせて、ヒロシと弟の名を呼んだ。「はい」という声がした。片腕で竹を抱いて顔を突っ伏している。奇跡だ。竹の仮救命筏を組み合わせて這い上がる。筏上は10人近い人になる。船員が、筏を分けて欲しい。助けを仰ごうかと思うと言う。「弟を連れて行って下さい」と船員に言う。ふかにより老人が下半身を食べられ、海中に引きこまれてゆく。黒い体に、板切れを振り続けた。飛魚をむさぼり食った中年の女性の呼吸が止まる。海中に滑り落とす。最後には4人しか残っていなかった。掃海艇に救い上げられる。
めざす陸地は鹿児島だ。乗客者1680名中、生存者は107名、学童700名のうち59名しか生き残っていない。母と妹の名前はなかった。祖母の家に行く。沖縄が玉砕した2か月後に終戦となる。アメリカ軍から沖縄へ疎開者を送還する指令が出た。島は赤茶けて知らぬ島になっていた。艦から降りると、DDTの粉末を吹き付けられた。背後に人の気配がした。叔父の子である。テントの集落に住んでいた。沖縄本島南端の摩文仁は死者の骨でおおわれていた。死者の骨のみが棲む場所である。
吉村 昭「脱出」