2016年7月7日木曜日

ニーチェの戦争実施4要項

  戦いとなると、本性上は戦闘的である。攻撃することは私の本能の一つである。敵となりうること、敵であること、強い天性を前提とする。すべての強い天性の所有者に起こることである。天性は抵抗するものを必要とする、抵抗するものを求める。攻撃的な感情が強さに必然的に伴うものであることは、復讐や遺恨の感情が弱さに伴うのと同様である。復讐心が強いのは弱さに由来して、他人の苦しみに感じやすいのが弱さに基いている。

 攻撃する者の力の強さを測定するには、どのような敵を必要としているかが一種の尺度となる。ひとの成長度を知るには、どれほど強力な敵対者を、どれほどの手ごわい問題を、求めているかを見ればよい。戦闘的な者は、問題に対しても決闘を挑むのである。めざすことは、抵抗するものに勝ちさえすればいいのでなく、自らの力と敏活さと武技の全量あげて戦わなければならない相手すなわち自分と対等の相手に打ち勝つことである。
 敵と対等であることは誠実な決闘の第一前提である。相手を軽視している場合、戦いということはありえない。相手に命令をくだし、いくぶんでも見下している場合には、戦うに及ばない。
 私においては戦争を実施する要項は、4箇条に要約できる。
第一に、勝ち誇こっている事柄だけを攻撃するあるいは勝ち誇るようになるまで待つ。
第二に、同盟者がみつからない事柄、孤立し、危険にさらされる事柄だけを攻撃する。
第三に、決して個人を攻撃しない、強力な拡大鏡のように害悪を利用するだけである。
第四に、個人的不和の影は帯びず、いやな背後の因縁が全くない対象だけを攻撃する。
 攻撃することは、私においては好意の表示であり、あるいは感謝の表示と思い込む。私においては、名のある事柄や人物の名に関わらせることによって、それらに敬意を表し、顕彰すると思い込む。私においては、それらに味方してか、それらに敵対してか、どちらも同じことだ。私においては、キリスト教に戦いを挑むが、その資格を許すのは、キリスト教の側から何の危害も障害も受けていないからである。最もまじめなキリスト教徒は、私にいつも好意をよせていた。私自身においても、キリスト教の苛烈な敵であるが、何千年来の宿命であるものを、個人に対して根にもつなどということは、思いにもよらぬことである。

 フリードリヒ・ニーチェ「このひとを見よ」