2017年10月29日日曜日

理性から生じる主観的必然性すなわち習慣を以て知見から生じる客観的必然性と見なす。

  理性はこの概念に関して徹頭徹尾おのれ自身をあざむいて居る、理性が之を自分の子と思うのは誤りである、何故なら、この概念は所詮想像力の私生児に他ならぬからである、想像力は経験によって受胎して、或る表象を連想律の下に置き、それから生ずる主観的必然性すなわち習慣を以て知見から生じる客観的必然性と見なすのである、と。之によって彼は更に推論した ー 理性はかかる結合を唯だ一般的にさえ思惟するする能力をもっていない、なぜというに然る場合には理性の概念は単なる仮想であるだろうから。そして理性が先天的に成立する認識と自称するものはすべて虚偽の烙印を押された普通の経験に他ならぬであろうと、かくの如きはまさしく形而上学は決して存在しない、また存在することはできぬ、と主張するのである。

イマニュエル・カント (デイヴィット・ヒューム)「プロレゴーメナ」