2017年10月31日火曜日

形式的に等価な函数は函数として違っていても、同じ集合を定義するものと考えなければならない。

 もし集合を命題函数と同じものであるとみなすならば、完全な理論に近づくことができる。すべての集合はそれの要素に対して真となり、それ以外のものに対して偽となるような一つの命題関数で定義される。しかし集合がある一つの命題関数で定義されるならば、それはまたその函数が真であるとき真で、偽であるとき偽となるような他の命題函数でも定義される。従って集合をそのような命題函数の中の特別な一つと ー他のものをさしおいてー 同一視することはできない。そして一つの命題函数が与えられたとき、それが真であるとき真となり、偽であるとき偽となるような命題函数はたくさんある。そのように二つの命題函数を互いに形式的に等価であるという。二つの命題が共に真であるかともに偽であるとき、その二つ命題は等価であるといい、二つの命題函数がすべての値に対して常に等価であるとき、この二つを形式的に等価であるという。与えられた函数に形式的に等価な他の函数があるということは、集合と命題函数とを同一視することのできない理由である。二つの違った集合が全く同じ要素を持つということは望ましくないことであるから、形式的に等価な函数は函数として違っていても、同じ集合を定義するものと考えなければならないからである。

バートランド・ラッセル (第17章 集合)「数理哲学説」

2017年10月30日月曜日

富と人口の増大は、賃金の充分、不充分にて起る影響ないならば、何処も一般利潤は下落しなければならぬ。

 賃金の騰落は社会のすべての状態に共通であって、それが静止、進歩、後退のいずれかの状態にあるかを問わぬ。静止状態においてはそれは全く人口の増減に依って左右される。進歩状態においては、資本と人口の何れがより早く増大するかに依存する。後退状態においては、人口と資本の何れがより早く減少するかに依存する。
 経験の示す如く資本と人口とは交互に先導し、その結果賃金は充分であったりするのであるから、賃金の関する限りにおいては、利潤については何等積極的に述べるを得ない。
 しかしもっぱら富と人口の増大しつつある社会においては、賃金の充分、不充分によって起る影響を措いて問わないならば、農業の諸改良や、穀物がより低廉な価格で輸入れさることがない限り、何処においても一般利潤は下落しなければならぬことは極めて充分に証明し得るところであろうと余は思うのである。
デビット・リカード「農業保護政策批判 ー 地代論 ー」

2017年10月29日日曜日

理性から生じる主観的必然性すなわち習慣を以て知見から生じる客観的必然性と見なす。

  理性はこの概念に関して徹頭徹尾おのれ自身をあざむいて居る、理性が之を自分の子と思うのは誤りである、何故なら、この概念は所詮想像力の私生児に他ならぬからである、想像力は経験によって受胎して、或る表象を連想律の下に置き、それから生ずる主観的必然性すなわち習慣を以て知見から生じる客観的必然性と見なすのである、と。之によって彼は更に推論した ー 理性はかかる結合を唯だ一般的にさえ思惟するする能力をもっていない、なぜというに然る場合には理性の概念は単なる仮想であるだろうから。そして理性が先天的に成立する認識と自称するものはすべて虚偽の烙印を押された普通の経験に他ならぬであろうと、かくの如きはまさしく形而上学は決して存在しない、また存在することはできぬ、と主張するのである。

イマニュエル・カント (デイヴィット・ヒューム)「プロレゴーメナ」

2017年10月28日土曜日

殺人の衆きときは悲哀みて泣き、戦勝つときは喪礼を以て之に処る。

安民章第三

賢を尚ざれば、民をして争はざらしむ。得難き貨を貴ばざれば、民をして盗まざらしむ。欲すべきを見ざれば、心をして乱れざらしむ。是の以に聖人の治むるや、その心を虚しくしてその腹を実し、その骨を強くしてその志を弱からしめ、常に民をして無知無欲ならしむ。夫の知者をして敢て為さざらしむれば、即ち治まらざるなし。

易性章第八

上善は水の若し。水は善く万物を利するも争わず、衆人の悪むところに処る。故に道に幾きなり。居には地を善とし、心には淵なるを善とし、与ふるには仁なるを善とし、言には信あるを善とし、政には収まるを善とし、事には能あるを善とし、動くには時は能あるを善とし、動くには時を善とす。夫れ唯争わず、故に尤なきなり。


檢欲章誤植第十二
五色は人の目を盲ならしめ、五音は人の耳を聾ならしめ、五味は人の口を爽よしめ、馳騁田猟は人心をして発狂はしめ、得難き貨は人の行を妨げしむ。是の以に聖人は腹のためにして目のためにせず、故に彼を去りて此を取る。

偃武章三十一
夫れた佳兵は不詳の器にして物或は之を悪む、故に有道者は処らず。君子居れば則ち左を貴ぶも兵を用いるときは則ち右を貴ぶ。兵は不詳の器にして君子の器にあらず、已むを得ずして之を用いるときは、恬惔を上しとなして勝つも美しとはせず。而之を美しとすれば是れ人を殺すことを楽しむなり、夫れ人を殺すことを楽しむものは則ち志を天下に得べからず。故に吉事には左を上び凶事には右を上ぶ。是の以に偏将軍は左に居り、上将軍は右に居る。殺人の衆きときは悲哀みて泣き、戦勝つときは喪礼を以て之に処る。
老子


2017年10月27日金曜日

人は科学により幸福を得ないかも知れないけど、科学を失えば現在よりもさらに不幸となるであろう。

 吾らにして道徳上の真理を恐るべからざるものならば、同様に科学的真理をも恐れてはならぬ。特に注意すべきはこれが真に道徳と矛盾することはあり得ないということである。道徳と科学とはそれぞれ特有の領域を有し、互に接触はするけれども相侵すことは無い。道徳は吾らに努力の目的を教え、科学はその与えられたる目的に到達する手段を知らしめる。かく両者を異にするが故に相対することはあり得ない。科学的道徳の存在し得ざると同様に、道徳に反する科学は存在し得ざるものである。

 人の科学を恐るるは、主として科学が吾人に幸福を与え得ざるによる。あきらかに科学は吾らに幸福を与えることはできぬ。吾らは科学を有せざる獣類が人間よりも苦痛を感ずること少なからざるかと疑う。併しながら人間ははたして獣類と同じく自己の死すべきを知らざるによりて不死的なるこの地上の楽園を追慕する事ができるだろうか。すでに禁断の果実を味った以上、人は苦痛のためにその味を忘れることなく、かえって常に回想希求する。人は科学によって幸福を得ないかも知れぬけれども、しかも今日科学を失えば現在よりもさらに不幸となるであろう。

アンリ・ポアンカレ「科学の価値」

2017年10月26日木曜日

真理を所有、信ずることは、いつでも個々の結論を、一つ残さず繰り返す以外には手がない。

 真理を、別のもっと単純なものに引き直せることの可能性にこそ、たとえその引き続いた結論の系列が、そんなに長く人工的なものと見えようとも、つぎのことのたしかな証拠があると認めるのである。すなわち真理を所有すること、または真理を信ずることはどんなときにも内的直観によって直接に与えられるものではなくて、いつでも個々の結論を、程度の差はあるにしても、一つ残さず繰り返す以外には手がないということである。このことを、一つ一つ追求して行くのに困難な思考活動を迅速に遂行する理由で、完全に熟練した読書家が読書に当って処理することと比較してもよいだろう。この読書という理由で、完全に熟練した読書家が読書に当って処理することと比較してもよいでしょう。この読書というものも、いつでも多少の差はあれ一歩一歩を残らず繰り返すことであって、初学者はことを骨の折れる一字一字の判読によって遂行しなければならないが、熟練した読書家にとってはその骨折りのごく少しの部分で、従って精神を労することも努力することもはなはだ少なくて、しかもただしい真の言葉をの意味を捉えることができる。
リヒャルト・デーデキント「数についてー連続性と数の本質ー」

2017年10月25日水曜日

愛国心は最大の危険であり、愛国心の毒々しさを増大するのは、天災、疫病、飢饉よりも恐るべきである。

 疑いもなく、言うところの愛国心は、文明が現在さらされている最大の危険であり、なんであれ愛国心の毒々しさを増大するものは、天災、疫病、飢饉よりも恐るべきものである。現在、若者たちの忠誠心は、一方では親に、他方では国家にというふうに、二分されている。万一、若者の忠誠心が国家にのみにささげられるようになれば、世界は現在よりも一段と残忍なものになる、と危惧するべき理由は十分にある。したがって、国際主義の問題が未解決のままであるかぎりは、子供の教育と世話を国家が分担する量が増えることには、その明白な利益を上回る由々しい危険がある、と私は考えている。
 もしも、国家が国際主義的であるなら、国家が父親の肩代わりをすることは文明にとって利益であるが、国家が国家主義的で軍事的であるかぎりは、戦争が文明なあたえる危機が増大することになる、ということである。家族は、急速に衰退しつつあるが、国際主義の成長は遅々としている。だから、事態は、大いに憂慮されてしかるべきである。それでも、望みがないわけではない。将来は、国際主義が、いままでよりも急速に成長するかもしれないからだ。われわれに未来を予測することができないのは、あるいは幸運なことかもしれない。だから、われわれは、未来が現在よりもよくなることを期待する権利はないにせよ、希望する権利はあるのである。

バートランド・ラッセル「ラッセル結婚論」

2017年10月24日火曜日

武士が政権を握ったのは武力の優越ではなく、土着の農家として土を支配し土から富を支配した。

 江戸時代になると、同じ血をわけた一族同胞の中でも、専門の武士となった人々はあっさりと土と縁を切って城下町に住む都会人となり、村に居残って専門の農業となった人々を「土百姓」とさげすみ、ただ年貢をとりたてたるほかに用のない者と思うようになったのでした。侍と百姓とがまるで別々の世界に住む、別々の人種のようになっていたことは、この村の草分けの時代と面白い対照をしているように思われます。
 武士が政権を握ったのは単なる武力の優越によるのではなく、土着の農家として土を支配し、土から生ずるいっさいの富を支配してたから、つまり土に根をはった強い経済力の上に立っていたからでした。それが単なる都会の消費者となり、生産には無関係、無関心となり、しかも生活程度は高まり、農村から取り立てた物を費やすばかり。したがって農村を衰微させるとともに、他方では商業の発達によってその方に生血を吸い取られて痩せ細る一方でしたから、結局大黒柱には白蟻のついていた同様の武士の政権が、黒船のひと揺すりから、あっけなく傾き出したのも不思議ではありませんでした。
山村 菊栄「わが住む村」

2017年10月23日月曜日

金銭の際限なく蓄積せられ得るという事は、外物に対する貧欲に我らを支配する力を与えた。

    理性活動に何よりも内面的な優秀が必要な如く、国家においてもこれが肝要である。外物は共同生活においてすら、唯活動のための手段としてのみ価値を有する、それはかくして定められたる制限を越えてはならぬ。しかし多数者の際限なく富を重ね積もうとする渇求が、その中に困難なる障害を持って来る。こんなものの中に真の幸福を見出そうとする妄想は、金銭が入り来ったため恐ろしく増大してきた。金銭の際限なく蓄積せられ得るという事は、外物に対する貧欲にいやが上にも我らを支配する力を与えた。かくて国家的社会もまたそれに対して強く戦わねばならない。国家が自らに対して、活動の発展に要するよりも以上に、外的手段を得んと努むべきではないと同じく、国家はまた市民の利得の念に程よき自然な制限をおき、そして特に金銭の支配に対して力を用いるを要する。すなわち確かなまた明らかに認め得られる生活標的によって外物に厳に限界を与えることと、社会の幸福と個人のその一致ということである。

ルードルフ・オイケン (アリストテレス) 「七大哲人」

2017年10月17日火曜日

あらゆる自然は、互いに分離して中間に空所のはいりこむことを嫌悪する。

 あらゆる物体は、互いに分離してその中間に見かけの空所のはいりこむことを、嫌悪する傾向を持っている。いいかえれば自然はこの見かけの空所を恐れている。あらゆる物体が有するかかる恐れ、もしくは嫌悪は。見かけの空所が小さいときよりも大きいときに、一そう甚だしいというようなことはない。いいかえれば、その中間の場所の大小の如何にかかわらず、一様の強さで、これを避けようとする。この恐れの強さには、しかし、限度がある。それは、一定の高さすなわちおおむね31ピエの高さの水が下方に流れようとする強さに相当する強さである。この見かけの空所に接している物体は、そこを満たそうとする傾向を有する。空所を満たそうとするこの傾向は、見かけの空所が小さいときよりも大きいときに、一そう強いというようなことはない。この傾向の強さには、おのずから限度がある。そしてそれは、一定の高さすなわちおおむね31ピエの高さの水が下方に流れようとする強さに、つねに相当する強さである。31ピエの高さの水が下方に流れようとする強さよりも、ほんの少しでも強さが増せば、この増しただけの強さで以て、いかに大きな見かけの空所をも生じさせるのに十分である。いいかえれば、この見かけの空所に対して自然がいだいている恐れのほかに、物体の分離や疎隔を防げるものが何も存在しないならば、増しただけの強さで、物体を分離させ、いかに大きな空間わも生じることができる。

フレーズ・パスカル (真空に関する新実験)「科学論文集」

2017年10月15日日曜日

大国民が急速に上昇した時代は、臆病、固執、無気力、主動力の欠如という独自の異常な性格を受けとった。

 君はおそらく、非常に本質的な相違があらわれることに気がつくでしょう。ドイツでは、小市民は、失敗に帰した革命の、中断され押し戻された発展の結実であり、三十年戦争及びそれにつづく時代ーちょうど他のほとんどすべての大国民が急速に上昇した時代ーによって、臆病、固執、無気力、及びあらゆる主動力の欠如という独自の、異常に作りあげられた性格を受けとったのです。この性格は、歴史的運動が再びドイツをおそったときにも、ドイツ小市民のものとしてとどまりました。この性格は、ドイツの他のすべての社会階級にも、多かれ少なかれ一般的なドイツの典型として自己を押しつけるに十分なほど協力でした。そして遂に、わが労働階級がやっとこの狭いかこいを突き破ったのでした。ドイツ労働者階級がやっとこの狭いかこいを突き破ったのでした。ドイツ労働者は、ドイツの小市民的固執をすっかり振り払ったという点でまさに、最もひどく「祖国をもたない」のです。
 小市民文学について(1890年6月5日、フリードリヒ・エンゲルス)
「マルクス・エンゲルス文学論」

2017年10月12日木曜日

勝利して以来、指導者達は、一般的精神生活を支配し教会の配下に置こうと努めた。

 教会がコンスタンティンの時勝利を博して以来、その指導者達は、一般的精神生活を支配しすべてを教会とその精神との配下に置こうと、努めた。すでに久しい以前から着手されていた基督教とローマ帝国ならびに古代文化との融合事業は、驚くべき速度を以って完成された。今や初めて、基督教と古代哲学との結合が成立した。有利な条件の下に再び、西欧と東洋、ローマとギリシャ間の活発な交通が可能となった。ラテンの教会は、東西両教会教会分裂の直前にあたり、ギリシャ的学問の資本を供給された。人々はあたかも、目前に迫れる運命を、野蛮人侵入の暗夜を、予感していたかのようであった。教会の強固な建築は大急ぎで仕上げられた。ギリシア哲学の中で役立つと思われるものは教理学の中に取り入れられ、他はすべて危険思想もしくは異端的教へとして退けられ、次いで漸次克服された。人々はローマ帝国の勝れた組織法から借りて来て、教会組織に関する制度を補った。教会法はローマ法に範をとった。礼拝規則は改良され、詳細に規定された。古代の異教的密儀教中荘重にして注目に値するものは、既に久しき以前から模倣されていたが、今更に一層荘厳な調子、卓越した思想と儀式的形式との不思議な一致が、こうして成立した。
フォン・ハルナック「アウグスティヌスの懺悔録」

2017年10月11日水曜日

代表者は弁護士として出てはいけない。自己の見解をも偏見なき裁判官として判決をする義務がある。

 道なき道に立つ者にとって最大の危機と誘惑とは、自己の說明の仕方に問題はないということを余りにも大きく確信することである。その說明の仕方そのものは正しいが、その者にとってそれが適合しない場合に用いられているかもしれない。ともかく、応急の說明を工夫して、これによって見かけは巧みに自身を救い出すことに成功することはできる。しかし代表者は弁護士として出てはいけない。自己の見解をも偏見なき裁判官として判決をする義務がある。事実という岸壁にぶつかるときは、無理を通すべきではない。後ろへ戻って他所に出口を求むべきである。自己の認識まは他人の正当な異論に強いられて、自分の好きになった解釈を求めようと決心した者は、火の試練に堪えたのである。後になってから、自分の途上の障害と見えたものは、実は自分を新しい小径へ連れて行き、この小径は自分を先に導きもし、自分に広い見透しを与えてくれたものであるということが、ますます明らかになるであろう。
カールレ・クローン (結語)「民俗学方法論」

2017年10月9日月曜日

我々は自分達が意識的にはどうにもできない幻の中を動いているのだ。

 我々は眠りに落ち入ると薄暗い古代の影の棲家に入る。覚醒時のあの外界からは何の直接光線も照らしてくれぬ。我々は、我々自身の自覚的な意欲なしに、その部屋々をあちこちと連れて行かれる。我々はそのカビの生えた朽ち果てた階段を転がり落ち、神秘に満ちた奥深い所から来る不思議な音や香りに付きまとわれる。我々は自分達が意識的にはどうにもできない幻の中を動いているのだ。我々は再び日常生活の世界に浮かび上がって来ると、一瞬陽の光が、我々が後に閉める戸の閉ざされぬうちに、薄暗い家の中にちらっと射すように思われる。そこで我々は今まで中をさま迷っていた部屋々を、まざまざと垣間見るのだ。そしてごくわずかながら、今までその所で送っていた生活についての多少の断片的の記憶がよみがえってくるのである。
ハヴロック・エリス (緒論) 「夢の世界」

2017年10月8日日曜日

省察ほど容易に君を他人の嗜欲や奸計から防護するものも他にはない。

 人間が人間に贈りうるもののうちで最も心おきない贈物は、人間が心情の奥底で自分自身に語ったものをおいて他にない。それはあらゆる神秘のうちの最も神秘なものを、自由な本質を洞察するあの広い無垢な眼を与えてくれるからである。また、これ以上に信頼のおける贈物は他にない。その訳は、親しい友人を純粋に直感することから生じるあの歓びが生涯を通じて君に付きまとい、また内的な真理が君の愛をしっかり捉えて、君をしばしば進んで省察へと立ち帰らせるようにするからである。更に、これほど容易に君を他人の嗜欲や奸計から防護するものも他にはない。そこには不当なものを誘い寄せたり、劣悪な目的に濫用されたりしそうな誘惑的な附属物はないからである。

フリードリヒ・シュライエルマッハー (献辞)「独白録」

2017年10月5日木曜日

古代の信仰に対し、直ちに近代の思想の立場よりこれを律するは不公の甚しき者也。

 古代の信仰に対し、直ちに近代の思想の立場よりこれを律するは不公の甚しき者也。当時においては有する自然の力は、神聖なりと思惟されき。就中創造生殖の力は、その最高位を占める者なりき。光熱をもて土地を受胎せしむる太陽を崇拝するも、動物界における一般生殖の源たる男女の生殖器を崇拝するも皆なこれ生々の力を崇拝するのに外ならず、かくして吾人は有ゆる古代の彫刻において、男女の生殖器が、自然のままにもしくば表号的に描写せらるるを見ん。しかしてこれらの描写の方法もまた文明の進むに従って、ますます習俗的になり、技巧的となり、諸種の改良修補を加へ、すなわち幼稚の世界においては、創世記にいわゆる『裸体にして恥ざりき』者、長じるに及んで、あるいは人間の形を着け、さらに宗教的表号をもってこれを飾る。しかもその者は服装のために変化せざるが如く、縦令妙なる表号をもっておおうも、その思想観念は依然として同一なるを知らざる可らず。

幸徳 秋水「基督教抹殺論」

明治天皇の暗殺計画の冤罪で1911年1月24日に大逆事件の死刑となった。

2017年10月4日水曜日

あらゆる義務は法則による強制の概念を含んでいる。

 あらゆる義務は法則による強制の概念を含んでいる。とりわけ倫理的義務は内的立法のみが可能であるような強制を、これに反して法的義務は外的立法もまた可能であるような強制を含んでいる。それ故両者が強制の概念を含んでいる、それが自己強制であろうと、他社による強制であろうと。かく前者の道徳的能力は徳とよばれ、かかる心情(法則に対する尊敬)から発する行為は徳行為(倫理的)と呼ばれ得る、たといその法則が法の義務を告げるにしても、何となれば人間の権利を神聖に保つように命ずるのは特論であるから。        併し徳を行うということは、それがためにまだ直ちに本来の徳の義務なのではない。前者は単に格率の形式にのみかかわることができるのに、後者は格率の実質に、すなわち同時に義務として考えられるところの目的にかかわるのである。ー ところが目的 ー これは数多く存在し得るが ー に対する倫理的責任は広い責任であり、ー 蓋し倫理的責任はその場合単に行為の格率に対する法則のみを含むから ー そして目的は執意の実質(対象)であるから、合法的目的の相異るにつれて相異る諸々の義務が存在するのであり、これらの義務が徳の義務と名づけられる、まさしくかく名づけられるわけはこれらの義務は単に自由な自己強制に属していて、他人の強制には属しておらず、同時に義務であるところの目的を規定するからである。

エマニュエル・カント (特論への緒論) 「道徳哲学」

2017年10月2日月曜日

平民等の務めは只働いて服従することがあって、疑いを抱いてはならなかった。

  謀叛に対する警戒として、平民は帯刀を禁止せられていた。平民の行動を監視するために、たくさんの目付が置かれていて、少しでも不満の様子があれば厳罰に処せられた。沈黙の恐怖が平民につきまとっていた。というのは凡ての壁に耳が生えているように思われたから。彼等の務めは只働いて服従することがあって、疑いを抱いてはならなかった。如何に富裕で諸芸に通じていても、平民と生まれたものは平民に終わらなければならなかった。峻厳な慣例と掟に囲まれていたので、平民の勢力は、その捌口を浮薄の生活かさもなければ世をはかなむ宗教に求めねばならなかった。宗教は、比較的真面目な平民にとっては印度の熱心な帰依者の間に明かに現れている彼の仏の御慈悲を専らにしようとして、阿彌陀佛の大慈大悲を頼むにあったというということに何の不思議があろう。比較的薄志弱行の輩が、馬鹿げ行いを理想化して已を忘れようとつとめたことを、咎め立てすることが出来ようか。
岡倉 覚三「日本の目覚め」

2017年10月1日日曜日

多数者の『権利』なるものは、強者の権利であって何等の道徳的根拠を有するものではない。

  もとより、時として個人の生活を『社会のために』犠牲にするに躊躇するものではない。けれども、ここで熟考せねばならぬ。このとこは、実に唯だ諸他の個人が彼等の生存を全うし得んがためにのみなされるのであろうか。集団の単なる生存が個人の単なる生存を左右し得る如き道徳的権利は、果して存在するであろうか。もとより自然においては、多数者が少数者を犠牲にして自己を保存しはする。然しもっぱら多数者の『権利』なるものは、強者の権利であって何等の道徳的根拠を有するものではない。逆に我々の道徳的希望が、集団の生存を一個人もしくは少数者の生存のために犠牲に供せられる場合に問題となるところのものは、単なる生存ではなくて生存するものの価値である。個人といえども独立的価値を有し得るのであるから、我々は決して個人を、如何ばかり多数にもせよ諸他の個人の単なる生存のために犠牲にするべきでなかろう。
ヴィルヘルム・ヴィンデルバント『道徳の原理に就て』