2017年7月16日日曜日

事が終わった後で不平は全て不正であり、事の起こる前でも不正だった。

 「先ずよく反省し、或る場合には十分に熟慮した後でなければ行動も判断もしない」という堅い意志を以て、思いも掛けない現象に予め備えることは精神次第なのである。しかしそういう場合にこの力を使わない精神があるということも本当であり、のみならず永遠にわたって確実である。しかしそれ以上のことを誰が為し得よう。その精神は自分以外のものに不平がいわれようか。事が終わった後でこういう不平は全て不正である。それは事の起こる前でも不正だったはずである。ところで、その精神は、罪を犯す少し前には神に対して、まるで自分に罪を犯させるのは神ででもあるかのように、平気で不平を伝えた義理であろうか。こういう事柄に関する神の決定は予め知るわけにはいかない以上はその精神がすでに現実に罪を犯した時でなければどこから「罪を犯すにきまっている」ということが知れよう。
ゴッドフリート・ライプニツ :  「形而上学叙説」
三十 ただなぜ、罪人ユダが他の可能な人々を描いて特に実在を許されたかを問うべきであること