2017年7月7日金曜日

本来のユダヤ人排斥は、危険な行き過ぎた感情の悪趣味な破廉恥な表出に思い違いをした。

  ヨーロッパはユダヤ人に何を負っているか。それは様々で、善いものも悪いものもあるが、何より最善でまた同時に最悪な一つのものがある。すなわち、道徳における巨怪な様式、無限の欲求、無限の意義をもつ恐怖と威厳、道徳的に疑わしいものの浪漫性と崇高性の全体がそれである。ー従って、これこそはあの色彩の変化と生の誘惑の最も魅力的で、最も宿業的で、最も精選された部分であって、これらのものの残照のうちに今日われわれのヨーロッパ文化の空が、その夕空が燃え、ー恐らくは燃え尽きようとしている。これに対して、われわれ傍観者であり哲学者であるもののうちの芸術家は、ユダヤ人にー感謝している。
 ユダヤ人についてであるが、まあ聞いてもらいたい。ー私はユダヤ人に対して好意的な考えを抱いていたようなドイツ人にいまだに会ったことはない。そして、本来のユダヤ人排斥はすべての用心深い人々や政治家たちの側から無条件に拒否されてはいるが、これらの用心や政策にしてもやはりそうした種類の感情そのものに反対しているのではなく、むしろ単にそうした感情の危険な行き過ぎを、特にこの行き過ぎた感情の悪趣味な破廉恥な表出に反対しているにすぎない。ーこの点について思い違いをしないようにしてもらいたい。ドイツには申し分なく多数のユダヤ人がいるということ、ドイツの胃、ドイツの血はこれだけの量のユダヤ人を始末するだけでも困難を感じる。
フリードリヒ・ニーチェ「民族と祖国」『善悪の悲願』