2016年9月16日金曜日

抽象的精神から可視的的に歩む文化

 印刷された書物は中世期に大伽藍の果たした役割を引きつぎ、民衆の精神の担い手になった。しかしながら、千冊の書物は、大伽藍に集中された一つの精神を千の意見に引き裂いた。言葉は石を粉砕した。
 見える精神はかくして読まれる精神に変わり、視覚の文化に変わった。この変化が生の相貌を一般的に大きく変えてしまったことは周知の通りである。概念と言葉の下に生き埋めになつている人間を再び直接人の眼に見えるように引き出す。
 使用されない器官は退化し畸型化するというのが自然の法則である。言葉の文化にあっては、表現手段としての我々の肉体は使用されず、そのために表現能力を失い、ぶきっちょで、幼稚で、鈍重で、粗暴なものになってしまった。文化は抽象的精神から可視的肉体への道を歩むかにみえる。意識的な知が無意識的な知覚力になる。
 人間における外的なものとは何か。地位・習慣・財産・着物、これらすべてが変容させ、おおい隠している。しかし人間はとりまくものに対して反作用する。人間は変容されつつ、こんどは自己のまわりのものを変容する。自己が大きな広い世界の中におかれていることを知る人は、その中に垣や壁をめぐらせた小さな世界を作り、それを自分のイメージに従って飾る。
 印象主義は、つねに全体の代わりに部分だけを示し、補足は観客の想像に委ねる。表現主義は、環境の全体像を示す。豊かな表情をも相貌にまで様式化して、まず第一に観客の感じとるような情緒を醸し出すことを、観客の想像に委ねたりはしない。
 カメラマンは意識的な画家でなければならない。第一に、視覚的芸術として映画はまた特に目を愉しませるものでもなければならない。第二に、一定の情緒を表現するからである。カメラマンは意識的に一定の情緒を表現するからである。だからカメラマンは意識的に一定の情緒を表現すべく勤めなければならない。

ベラ・バージュ「視覚的人間ー映画のラマーベラベラ」