2016年9月17日土曜日

偏狭な非情で萎縮さす野蛮な愛国主義

    愛国とは何ぞ。如何なる人士に負はしむるに愛国といへる栄名を以ってすべきや。世間似て非なるもの多し。紫の朱を奪うは、古今の通弊に非ずや。

 常に其の眼前に遮りて遠征の人を悩殺す。此れ吾が祖宗の国なり。我等の汗は、其の土壌に滴りぬ。我らの血は、その誉ある幾多の戦場に流れたり。我らの痕跡は、吾が衣装に、慣習に、言語に、終にまた文章に残りて甚だ鮮やかなり。吾人が国を愛するは、単に郷土を愛するのみに非ず。愛国の真意は、国民を愛するに在り、其の歴史を忘れ難く覚ゆるに在り、夢床の間に其の英雄と交通するに在り。

 真正の愛国は、既往に束縛せらるるものに非ず、今に居て能く過去を継承し、其の精神を拡充して、大いに新田地を開拓するを期するものなり。祖宗の偉業を弘め、粛々として、其の大成を図るは、国を愛するものの志す所なり。往を承け来に継ぐの大義を忘れ、漫に国粋の主義を唱え、鎖国的の国民論を主張するのは、抑また愛国の本義を誤れるものに非ずや。此の主義に由りて、政治を論ずるものは、実に固弊にして其の国に害すること甚だし。

 一国の民、其の自己を執りて、固く立たず、妄りに外国の風習、文物に屈従し、奴隷の如く其の模倣に奔走するのは、吾人の非難する所なり。吾人は当然なる国民主義に左袒す。偏狭なる区域に躊躇して、広く人類の同情同感を求めず、固弊な国民の視覚を萎縮せしむること甚だしき。これを名付けて、野蛮と称す。

斉藤 勇「上村正久文集」