2016年10月10日月曜日

仏教徒は生に縁って老と死あり

 仏教徒は世界の基盤として恒久的実体や根本原質ーすなわち、あらゆる事物や現象の実体的基盤を認めない。認めるのは、ただ非実体的な諸法だけである。現象は次々に起こってくる。一つが存し、これに続いて他が生じる。仏教の唯一の目的である解脱のため、輪廻の真相を見極める。
 輪廻の縁起説は、「何ある時、老と死ありや、何に縁ってそれは生ずるや。ーただ生のある時のみ、老と死あり。生に縁って老と死あり。・・・何ある時、生・・・あるや。ただ生存あるときのみ・・・」「生存、有」は文字通りには「生成」の意味である。受胎に際して肉体の形を採るようになることと考え、外の人々は、再生を惹き起す業、いわば「業による」生成の意味に解している。
 縁起説は、通俗的解釈の立場からすれば、縁起説は、意識ある存在の生存状態を、前世での「無知」と、この無知に基づく潜在意識の構成力が、新しい今日の生存の原因または誘引であり、今日の生存における最初の成因は、意識の目覚めである。
 「生存」は、次の世での出生をと老・死とを生じることになる。最初り誘因たる「無知」は何に基づくのであろうか。「無知に際限なし」と仏陀は教えた。それはあたかも樹木と種子、鶏と卵の関係であると説かれる。この悠久のドラマの究極原因が何であるかを、潜在力の入り交う循環論的思惟から期待することはできない。まして精神と物質の区別や、主体と主体を成り立たせている条件の区別など期待することはできないのである。

ジャン・ゴンダ「インド思想史」