十七歳の時には妾(わらわ: 女性がへりくだって自分をいう語)に取りて一生忘れがたき年なり。吾が郷里には自由民権の論客が多く集まりて、日頃兄弟のごく親しみ合へる。時の政府に国会開設の請願をなし、諸懸に先立ちて民衆の迷夢を破らんとはなしぬ。
かかりし程に、一日朝鮮動乱に引き続いて、日清の談判開始せられたりとの報、端なくも妾の書窓を驚かしぬ。我が当局の恥辱を賭して、偏に一時の詠歌を衒い、百年の患いを遺して、唯だ一身の苟安を翼ふに汲々たる様子を見ては、いちど感情にのみ奔るの癖ある妾は、憤慨の念燃えるばかり、遂に巾国の身をも打ち忘れて、いかで吾奮い起ち、優柔なる当局及び惰民の眠をさまし呉れでは已むまじの心となりしこそ端たなき限りなりしか。
嗚呼斯の如くにて妾は断然書を投げ打つの不幸を来せるなり。当時の妾の感情を洩らせる一片の文あり、素より狂信の言に近きけれども、当時妾が黒鍵主義に心酔し、忠君愛国てふ事に熱中したりし其有様を知るものに足るものあれば、叙事の順序として、抜粋することを許したまえ。斯は大阪未決監獄入監中に起草せるものなりき。妾はここに自白す、妾は今貴族豪商の喧騒を憂ふると共に、又昔時死生を共にせし自由党有志者の堕落軽薄を厭へり。我等女子の身なりとも、国のためてう念は死に抵るまでも已まざるべく、此の一念は、やがて妾を導きて、頻りに社会主義者の説を聴くを喜ばしめ、漸く彼の私欲私利に汲々たる帝国主義者の云為を厭はしめぬ。
嗚呼学識なくして、徒らに感情のみに支配されし当時の思想の誤れりしことよ。されど其頃の妾は憂世愛国の女志士として、人も容されき、妾も許しき。姑らく女志士として語らしめよ。
獄中述懐(1885(明治18)年12月19日大阪未決監獄に於いて、時に19歳)
元来儂は我国民権の拡張せず、従って婦女が古来の陋習に慣れ、卑々屈々男子の奴隷ためを甘んじて、天賦自由の権利あるを知らず己れがために如何なる弊制悪法あるも恬として意に介せず、一身の小栄に安んじ錦衣玉食するのを以て、人生最大の幸福名誉となすのみ、豈事体の何物ためを知らんや、況や邦家の休戚をや。未だ嘗て念頭に懸けざるは、滔々たる日本婦女皆是にして、恰も度外物の如く自ら卑屈し、政事に関する事は女子の知れざる事となし一も顧慮する意なし。
福田 英子「妾の半生涯」
女性解放運動の先駆者「東洋のジャンヌ・ダルク」