2016年10月9日日曜日

労苦の市民に厳しく恒常的な威嚇

 社会的範疇の区別がきわめて厳格なとき、往々にして驚くべき成果がある。種々の労働について決定をくだす者が、このうえない痛みや苦しみや危険を切実に感じないばかりか、それらのなんたるかを知ることすらない状況におかれる一方で、そうした決定を実行に移し労苦をひきうける者が、いっさいの選択の余地なく、多少なりとも偽装された死の厳しい威嚇に恒常的にさらされるときである。
 そのとき人間があてにならぬ自然の気まぐれから些かでも逃れようとすれば、権力への闘争の負けず劣らずあてにならなぬ気まぐれに身を投じるしかない。人間が自然の諸力を制御できるまでに進歩した技術を手にするときき、つまりわれわれの状況がそうなのだが、このことはまさしく妥当する。かかる状況にあっては、協働がきわめて広範囲な段階にわたって実現される必要があるので、指導者たちは自身の制御能力をはるかにこえる大量の要件をかかえこむことになるからだ。
 この事実のゆえに、人類は自然の諸力に翻弄される玩具ともなる。技術の進歩が与えるあらたな形態をとるとはいえ、原始時代にそうであったのと変わらぬ程度まで。われわれはこの苦い経験を過去にも現在にも味わっているが、将来においても味わうだろう。
 抑圧を払いのけつつ技術の保全を図る企てはというと、たちどころに極度の怠惰と混乱をひきおこすので、かかる企てに加担しようものなら、しばしば時をおかずして自身の首をくびきに差し出す憂目をみる。

シモーヌ・ヴェイユ「自由と社会的抑圧」