2016年10月25日火曜日

疑うか信じるかは反省しない解決法

 表面だけしか見ない観察者にとっては、科学の真理は疑いの余地のないものである。科学上の論理は誤ることはないし、学者はときおり思いちがいをすることがあっても、それは論理の規則を見損なったためである。
 少しでも反省したものは、仮説の占める領分が、どんなに広いかとうことに気がついた。そこで、はたしてこれらすべての構築が極めて堅固なものであるかどうかが疑われ、わずかの微風にあっても打倒されてしまうと信ずるようになった。こういうふうに懐疑的になるのは、これもまた表面的な考えである。すべてを疑うか、すべてを信じるかは、二つとも都合のよい解決法である、どちらにしても我々は反省しないですむからである。
 だから簡単に判決をくだしたりしないで、仮説の役割を、念入りに検しらべてみるべきである。そうすれば仮説の役割が必要であるというばかりでなく、たいていの場合に正当であることを認めるであろう。また仮説には多くの種類があって、或る種の仮説は確かめることができるし、ひとたび実験によって確認されれば、多くの結果を生む真理となること、またあるものは我々を誤りにおとし入れたりしないで思考に依り所を与える役にたつこと、もうひとつ第三種としては、見せかけだけが仮説であって、実は定義や規約が粉装をつけたものに過ぎないといことがわかるであろう。

アンリ・ポアンカレ「科学と仮説」