2016年10月13日木曜日

倫理には義務・強制・命令の存在

  倫理は普通なにか義務を意味している。それは強制を含み、命令として存在する。このような倫理は格率において示されるのがつねである。我々はこれを格率的倫理と称することができる。倫理と通常いわれるものは諸格率の一体系として与えられる。
 このような倫理をその純粋な姿において観察するならば、その特性は、それがまさに格率的であって、没人格的であるというところに見出される。格率的な倫理は二重の意味において没人格的或いは没人間的であろう。先ず一方において、それにとって実際に我々に向かって或る格率に服従することを命ずる者自身が倫理的に如何なる種類の人間であるかは問題にならない。不徳の人も有徳の人も他に対して同じように命令することができる。命令する人間如何は、そこでは多くの問題にならない。このことは、それを命令するものが究極において個々の人間ではなく社会であって、個人はいわばただこの社会を代表する視覚で命令するに過ぎぬということを現しているであろう。格率は非人格的な命題である。そして他方において、格率的な倫理は個個の人間、個性に対してそれぞれ個性的な関係を含むのではなく、すべての人間に向って一様に命令する。人間は個性としてではなく、むしろ社会として見られている。かような社会的人間として人間は「ひと」である。「ひとししかじかのこを為さねばならぬ」というように格率は命じている。格率的倫理においては「ひと」という範疇が支配的である。この「ひと」はテイデッゲル的な"das Man" であって、日常的における、或いは平均性または凡庸性における人間てある。格率的倫理はその意味で日常倫理にほかならない。かようにして格率的倫理はまさにその没人格性のために法則性もしくは普遍性を示している。

三木 清「哲学ノート」