2016年10月21日金曜日

国家と社会による支配と矛盾

 人が国家を形づくり国民として団結するのは、人類として、個人として、人間として生きるためである。決して国民として生きるためでも何でもない。宗教や文芸、あに独り人を人として生かしむものであろう。人の形づくり、人の工夫する一切が、人を人として生かしむることを唯一の目的とせるものである。
 しからんばいかにして宗教と国家、文芸と国家との相衡突することがあるのかと。曰く、国家と文芸もしくは宗教とはその目的からいえば矛盾撞着すべきものではないが、しかる或る時代において、その時代の人間の生活様式に相応して、形づくられ、工夫せられた制度、思想が既にその時代をすぎたにもかかわらず残存し、而して一方には新たな生活様式に相応すべく、或る制度、思想が起リ、もしくは起らんとしつつある時には、その旧き制度、思想と新しき制度、思想とは衝突する。ここに国家と宗教とが相容れなかったり、国家と文芸とが相悖ったりするのである。
 しかしその衝突するのは決してその本来の目的、その本来の立場が異なっておるがためでなくして、一つの目的を達するため、一つの立場をとるため、一時矛盾撞着するのである。言い換えれば、時代に相応せざる制度、思想を時代に相応するものに改造せんとする努力である。
 しかし思え、実際の我々の生活はいかに今国家というものに支配せられているか、いかに今社会制度によって支配せられているか。もし人生を徹底的に具体的に考えるならば、ぜひともここへ触れて来ねばならぬのである。

石橋湛山 「国家と宗教および文芸」『東洋時論』「文芸 教学」

1911(明治44)年5月号「石橋湛山評論集」