2017年7月8日土曜日

民族の存在様態は、核心的のものである場合に、一定の意味は「言語」によって通路を開く。

 まず一般に言語というものは民族といかなる関係を有するのか。言語の内容たる意味と民族の存在とはいかなる関係に立つか。意味の妥当問題は意味の存在問題を無用になし得るものではない。否、往々、存在問題の方が原本的である。我々はまず与えられた具体から出発しなければならない。我々に直接に与えられているものは「我々」である。また我々の総合と考えられる「民族」である。そうして民族の存在様態は、その民族にとって核心的のものである場合に、一定の「意味」として現れてくる。また、その一定の意味は「言語」によって通路を開く。それ故に一の意味または言語は、一民族の過去および現在の存在様態の自己表明、歴史を有する特殊の文化の自己開示にほかならない。したがって、意味および言語と民族の意識的存在との関係は、前者が集合して後者を形成するのではなく、民族の生きた存在が意味および言語を創造するのである。両者の関係は、部分が全体に先立つ機械的構成関係ではなくて、全体が部分を規定する有機的構成関係を示している。それ故に、一民族の有する或る具体的意味または言語は、その民族の存在の表明として、民族の体験り特殊な色合いを帯びていないはずはない。

九鬼 周造「いきの構造」