引揚孤児と犯された女たちの昭和史の記録である。富田糸絵は30歳を過ぎた混血の女性で、引揚船の中で生まれた。中国でソ連兵に犯された母親が産んだ。白い肌、青く澄んだ眼で、福岡のジーパンセンターで働く。聖福寺境内の引揚げ孤児施設に、母親が置いて駆け落ちてゆく。託児所に預かれて育てられた。劇場主に里子に出す。夫婦に三人の女の子が生まれる。二日市保養所はひそかに治療回復させる施設である。強姦によって女性に堕胎手術が行われ、性病も治療された。糸江は大阪で結婚し、キャバレーにも勤めたこともある。養母は彼女に静かにしてくれと言う。「博多に行けば何とかなる」と思い博多に来たる朝鮮人滞留者は常に1万5千になり、引き上げた来た邦人の数は32万人になり、送還した朝鮮人は49万人にのぼる。
聖福寺を借り受けて病院にする医療救護は。泉靖一が組織する。才能を持った人で、政界にあれば大臣が務まるような男であった。1947(昭和22)年に14人と保母さんが集まって話合う。「引揚」「病気」「親との死別」という三重苦を受けた恐怖で神経や精神が冒されている。引き取り手のない子供は、孤児施設の松風園にひとまず入れる。1947(昭和22)年4月5日、最後の引揚船である恵山丸が入港し、その業務を終える。220人にコレラ患者、67人のコレラ死亡者を出した。引揚の専従職員は1500人にのぼる。聖福寮は1947(昭和22)年3月に任務を終える。1947(昭和22)年3月18日に、「宿泊託児所聖福子供寮」として開設する。泉靖一の人間に対するやさしさと、福岡友の会の若い女性達の努力の結果により、児童33名、保母9名で開所する。1952(昭和27)年に「いずみ保育園」と改めた。1965(昭和40)年4月に閉院になる。寺総代が境内借地からの立退をすませた 。
二日市保養所は、京都帝大医学部のメンバーがその任に当たる。中国大陸に残留した一般邦人の引揚は、米軍艦艇の大量配船によって1年で終結した。二日市保養所は、不法妊婦堕胎のための秘密病院であった。日本軍も南京占領時、外人の証言によると2万人の強姦事件があった。性病検診とその治療が行われた。日本民族の防衛が目的で、女性の深い傷に思いを寄せる人は誰もいない。
人工妊娠中絶手術は、橋爪医師が1人でする。不法妊婦47名、性病11名の患者がいる。8か月以降の堕胎児手術には穿頭手術を施す。特殊なノミの様な器械を入れる。泣きもせずに脳が出て、桜並木の土手に埋められる。済生会二日病院は、病院では時々腑に落ちないことが起きる。土地や建物に付いた霊を慰めるため、年に一度祈祷師を招いておはらいをする。暴れて困った手術の人はいない。なすがままで、無邪気な状態であった。麻酔もされずに手術台に乗り、一つあげない女達、片すみで力なく泣き声をあげた赤ちゃん、そのおぞましさに戦慄する。
1946(昭和21)年4月25日、博多港に婦人健康相談所が設置される。国立福岡療養所、九大、久留米医専の病院などでも手術や治療が行われた。不妊妊娠の女性だけでなく、正常妊娠でも先行き不安から申告して堕胎するケースもあった。佐世保湾内に浮かぶ針尾島には「ニイタカヤマノボレ」の暗号電報を発した無線機がある。最近では原子力船「むつ」の修理港にも、当時は何千人と着く復員軍人や一般引揚者を受け入れて、また吐き出す。宿舎には1日数万人を賄う炊事場、浴場の大煙突を中心に、附属病院、郵便局出張所、そして悲しい火葬場までを持つ小都市になっていた。
上坪 隆