2016年8月13日土曜日

「国体」からの「天皇」

 「国体」は、過去・現在・未来を通じて天皇を統治権の総覧者とする独特の国柄、という意味をもってこの用語は不可侵性を帯び、国民を畏怖させました。もともと一般的に国家の形態や体面を意味していた国体の用語が、日本独特の国柄との意味を持ち、また多様されるに至ったのは、幕末の対外的な危機の到来を引き金とします。日神の子孫である天皇が皇統を継いでいるという意味で、それも日本の比類のない価値をづけを盛り込んでいます。結果として国体論は、1) 天皇の一系支配 2) 天皇と億兆の親密性 3) 奉孝心の3つの要素をを軸とする国柄との論へゆきます。
 「国体論」は「昭和」の時代に、人びとの思想を規制するうえでとくに猛威を振いました。「昭和」に入る直前の1925(大正14)年に制定・施行された治安維持法は、第一条に「国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し又は情を知りてこれに加入したる者は十年以下の懲役又は禁錮に処す」として「国体」の二文字を法律の条文に登場させました。三年後にこの条文は、緊急勅令をもって、国体変革と私有財産否認の二項に分離されるとともに、前者については最高刑が死刑にまで引き上げられます。そこには「国体」を「天皇制」に捉えるマルクス主義およびその運動の出現にたいする恐怖と敵意がむき出しになっていました。その国体の観念は、1931(昭和6)年のいわゆる「満州」事変以後、戦時体制化が進むとともに、人びとを精神的に動員するためのキーワードとして日本に溢れ出します。
 国体論の跳梁でした。戦時下(1937(昭和12)年-1944(昭和19)年)のキーワードを分析すると、「戦時下用語」に関しては 1)聖旨 2) 一億一心 3) 東亜新秩序 4) 御稜威 5)国体 「天皇」に関しては1) 聖旨 2) 御稜威 3) 国体 4) 大御心 5) 皇恩 でありました。
日本は国体の大本が輝いていること、日本が一大家族国家で臣民は自然の心のあらわれとして天皇に絶対に従うことが強調されました。
 されだけの畏怖性を備えるため、ほとんどだれも、正面を切って国体を否認することはできませんでした。国体は大戦後の民主主義で歴史上の名辞と化しましたが、人々を畏怖させる力を、なまの暴力性を伴って潜在させています。国体は休火山にはなったが、死火山とはなっていません。

 鹿野 政直「近代日本思想案内」