大陸の土を踏む従軍看護婦
大陸の土を踏む
大本営陸海軍の臨時ニュースが入る。「帝国陸海軍は1941(昭和16)年12月8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」。ラジオは、ハワイ真珠湾のアメリカ軍太平洋艦隊を全滅させたことを伝えた。1931(昭和6)年満州事変、1937(昭和12)年支那事変が始まる。「八紘一宇(はっこういちう)」の合言葉により、全世界を一つの家とし、その家の家長は日本の天皇陛下である。勝利のちょうちん行列がにぎやかに行われた。「大東亜共栄圏」は間近と信じた。
看護婦は婦人職業の花形だった。17歳の時に松江赤十字看護養成所に入学する。連隊責任がおしつけられ予告なしに私物検査があった。不愉快な思い出として残る。「1億火の玉」「ぜいたくは敵だ」「ほしがりません勝つまでは」という標語により、男子はカーキー色の国民服と坊主頭、女子はモンペ姿に統一される。「外地派遣救護要員トシテ召集セラルル筈ニ付承知相成度候也」と赤紙が来る。
釜山連絡船興安丸に乗り込む。行ん先は知らされず。「飯飯進上」と浮浪児が残飯乞いに群がる。列車でEさんの帽子が飛ばされ「陛下からいただいたものを」と始末書を取られる。南京第一陸軍病院は、国立中央大学を接収した病院でベッド数1500床、看護婦1000人いた。「患者に母性愛を持ってはいけない」「石のようになって働け」「伝染病結核病棟に勤務して感染したら恥辱と思え」と言われ、看護婦の病気は私傷であった。罹患しちら最後、国から見放される。秋になると流行性脳脊髄炎の患者がどっと入院してきた。弟の戦死を知り忍び泣く。
1945(昭和20)年が明けると、戦局はいよいよ不利になり、甘い物は少なく、白衣も草色に染めた。看護婦は軍服を着て「女の兵隊」と言われる。隣村のKさんと会う。彼は防疫給水隊に勤め、そこが細菌研究所であることは、公然の秘密として知れ渡っている。パンをあげて、だましてクリークを連れて来て生体実験して殺していると誰言うことなく言われていた。1945(昭和20)年7月25日、患者を迎えにトラックで出かけた時に、機関銃掃射にあう。患者は石炭船で輸送される。勝った勝ったの戦況報告とは信じられない惨状であった。よくもこんなに死ぬものと思うほど死人が出た。
1945(昭和20)年8月15日に敗戦となる。「陛下の赤子として力が足りなかった」と自殺者が続いた。日本軍は南京市市民老若男女4万2000人を虐殺し、南京進撃中にも30万人の中国人を殺していたと言われる。軍の関係者が汚れた過去を消すため、防疫吸水隊の建物を爆破する。1946(昭和21)年7月に内地に帰る。
白の墓標銘(従軍看護婦の記録) 鈴木 妙子