2016年8月15日月曜日

生と死の謎

 精神は諸々の生関係とそれに基く諸経験とを全体に総括しようとするが、それを果たし得ない。生殖、誕生、成長及び死が一切の不可解の中心話である。生けるものは死について知っているが、しかし、死を理解することは出来ぬ。死者を初めて見たときから死は人生にとって理解すべきからざるものである。
 そうして我々が世界に対して何か他のもの、異様なもの、または恐ろしきものに対する如き態度をとるのは、何よりもこのところに基いている。従って死という事実の中には、この事実を説明する想像的観念を強要するものがある。死者の信仰、祖先の崇拝、死者の祭祀が宗教的信仰や形而上学の基礎観念を生む。
 永遠の闘争、他の生物によってある生物が絶えず滅ぼされること、自然を支配しいてるものの残忍さ。これらのことを人が社会や自然において経験するにつれ、生の異様さは増大する。生活経験において次第に強く意識されてくるが、決して解かれることのない様々の奇異な矛盾が現れてくる。すなわち、一般に諸行無常なることと確固たるものに向かう我々の意志、自然の力と我々意志の自立性、時間空間内のあらゆる事物の被限定性と如何なる限界をも超越する我々の能力がこれである。今日のキリスト教の牧師の説教と同じ様に、この謎の解決に従事したのである。

              ウィルヘルム・ディルタイ「世界観の研究」