2016年8月21日日曜日

戦争理想化から現実化の自覚

 わたしはある新聞で、人の心には名誉を欲する貴い要求があって、根こそぎぬくことは難しいから、戦争というものは耐える時がなかろう、とくわしくのべた論文を読んだ。
 この戦争賛美者は、感激とか、正当防衛とかで、戦争を多少理想化してだけ考えているが、もし彼等がアフリカの戦場の一つである原生林を旅して、重荷に堪え難くて倒れ、さびしく路上に死んだ人夫らの死体をあいだを歩いたらとしたら、また、原生林の暗黒と静寂の中で、その罪もなく霊感もない犠牲者を前にして、戦争とはそれ自身どんなものであるかを考えたとしたならば、彼等も自覚するに到るであろう。

 各国の白人は、遠い国々を発見して以来、有色人種のために何をして来たろうか。イエスの名を飾りとしたヨーロッパ人が入り込んだところでは、すでに多くの種族は死に絶え、あるものは耐えようとし、あるいは減少して行く。この一事実はそれだけでも何を意味するか! 有色人種が数世紀にわたってヨーロッパ人から受けた不正と残忍さとを誰が記録できるか? われわれがもたらした火酒といまわしい疾病とが有色人種のあいだに生んだ不幸を誰が測りえようか!
  われわれも、われわれの文化も、ひとつの大きな責任を負っている。われわれはかの地の人々に全をおこないたいとか、おこないたくないとかの自由をまったくもたない。おこなわなければならないのである。われわれが彼等に善をおこなうのては事前ではなくつぐないである。
 
 不安と肉体の苦痛とがどんなものであるかを、体験した者は、全世界でつながりをもっている。神秘なひもが彼らを結んでいる。彼らはみなたがいに、人間を征服できる恐るべきものと苦痛からのがれたいことを知っている。一度苦痛を不安を知らされた者は、人力のおよぶかぎりこれを防ぎ、自分が救われたように他人にも救いをもたらそうと助力しなければならない。

アルベルト・シュヴァイツェル「水と原始林のはざまで」