2016年8月22日月曜日

死を生に対立する存在

 無と闇とのある類似性が認められている。目が闇を見ることができないのと同様に、知性は無を思考することができない。まさにこの紛れも無い類似こそ、我々をそれらの共通な起源に導く。
 無は存在の対立物として、東洋的想像力の産物である。この東洋的想像力は、実在しないものを実在と考え、死を独立した絶滅原理として生に対立させ、光に夜を、あたかも夜がたんに光のたんなる不在にすぎないのではなく、独立した積極的なものであるかのように対立させる。
 したがって光に対立されたものとして夜が実在性をもつ程度に、あるいは持たない程度に、あるいはそれ以下に、実在一般の対立物としての無は、根拠および理性的実在性をもち、あるいはもたない。
 しかしながら、夜が実体化されるのは、ただ次のような場合にかぎられる。すなわち、人間がまだ主観的なものと客観的なものとを区別しない場合、人間が自分の主観的な印象と感覚を客観的なものとを区別しない場合、人間が自分の主観的な印象と感覚を客観的なものとを区別しない場合、人間が自分の主観的な印象と感覚を客観的な性質とする場合、人間の表象の視野がまだきわめて狭い場合、人間の自分の局所的な立場を世界、宇宙そのものの立場と考える場合、そのために、自分にとって光の消失を現実の消失とみなし、闇を光源そのものである太陽の消失と考える場合、そしてまさにそのために彼が、光に敵対する特殊な存在を仮定しないと、暗くなることを説明することができず、日食の時にはそうした存在を太陽と戦う竜または蛇の姿として見る、そういう場合である。光に敵対する特殊な存在としての闇は、その根拠を知的な闇のうちにのみもっている。つまりされは空想のうちのみ存在する。

ルートヴッヒ・アレンドレアス・フォイエルバッハ「将来の哲学の根本命題」