2017年7月31日月曜日

すべて理性を持たないものを自分に従わせ、自由にして自分の法則によって支配することが人間の最後の究極的目的である。

 すべて理性を持たないものを自分にしたがわせ、これを自由にそして自分の法則によって支配することが人間の最後の究極的目的である。この最後の究極的目的は、人間が人間であることをやめてならず、人間が神になってならないならば全然達成されないものであるとし永遠に達成されないものであらねばならない。人間という概念にはその最後の目標は達成されず、これに至る道はかぎりないものでなければならないことが含意されているのである。そこで、この目標に達することは人間の使命ではない。しかし人間はこの目標にますます近づくことができ、また近づかねばならない。したがってこの目標にかぎりなく近づくことがかれの人間としての、つまり理性的ではあるが有限な存在者、感性的ではあるが自由な存在者としてのほんとうの使命である。ーところであの自己自身との完全な一致を最高の意味で完全性と名づけると、また名づけるのは無論さしつかへないことである。で、そうすると完全性ということは人間のきわめて到達しにくい目標ということになる。しかしかぎりなく完成していくことは彼の使命である。人間が現存しているのはみづからますます道徳的により善くなって行って、自分のまわりのあらゆるものを感性的により善くし、人間を社会の中で考察すれば、道徳的にもより善くし、こうして自分自身をますます幸福にして行くためである。
ヨハン・ゴットリーブ・フィヒテ「学者の使命 学者の本質」

2017年7月30日日曜日

好奇心のおもむくままにまかせた「科学のための科学」とは不合理な概念である。

 トルストイから見れば「科学のための科学」とは不合理な概念であるという。「一切の事実を知りつくすことは吾々のよくするところではない。実際には無限ともいうべきほどその数が多いからである。したがってその間、選択をしなければならないのであるが、この選択に際して、吾々は好奇心のおもむくままにまかせて差支えないであろうか。むしろ実益を、いいかえれば吾々の実際的要求を、わけても吾々の道徳的要求を、標準とする方がまさりはしないであろうか。この地球上に何びきテントウムシがいるか、かようなことを計算するよりも、かようなことを計算するよりもさらに価値ある仕事がないであろうか。」というのである。
 わたしにとっては、もとをいうまでもないことであるが、この両者のうちいずれの理想も満足しがたいものである。彼の貧林愚昧な金力政治も、またひたすら右の頬を打たれて左の頬をむけることのみ没頭する彼の道徳的ではあるが凡庸な民衆政治も、ともに私の欲するところではない。後者のもとに住むものは、好奇心の欠けた聖者たちであって、かような聖者たちは極端を戒めるあまり、病に死することはないであろうが、かならず退屈に兼ねて死する相違ない。しかしながら、これは趣味の問題であって、わたしの論じようと欲求するのはこの点ではない。
アンリ・ポアンカレ「科学と方法」

2017年7月29日土曜日

現代の政治家たちは、金の計算をやめて、金では買えないものはないが、習俗と市民とは例外であることを反省してもらいたい。


 キュロスのペルシア王国は、ペルシアの最も小さな太守よりも、なお貧しい一君主に率いられた三万の兵によって征服されました。また、あらゆる民族の中で最もみじめなスキタイ人は、世界最強の君主達に抵抗しました。二つの有名な共和国が、世界の支配を争いました。2つの有名な共和国が、世界の支配を争いました。一つはひじょうに富み、他はなにももちませんでしたが、前者を滅ぼしたのは後者でした。世界のすべての富を併呑した後、こんどは、ローマ帝国が、富が何であるかをさえ知らない人々の餌食になりました。フランク人は、ガリア人を征服し、サクソン人はイギリスを征服しましたが、彼らは、剛勇と貧困の他には、何の財産ももっていなかったのです。数枚の羊の皮で、その欲望がみちされていた一群の貧しい岳人が、傲慢なオーストラリア人征服した後、当時ヨーロッパの専制君主たちをふるえあがらせていた裕福で恐ろしいブルゴーニュ家を粉砕しました。最後に、東西両インドの全財産に支えられていたカール五世の後継者がもっていたあらゆる権力も知力も、一握りの漁夫にぶっつかって、壊滅するにいたりました。現代の政治家たちが、金の計算をやめて、これらの実例を反省してくれれば、また、金では買えないものはないが、習俗と市民とは例外であることを一発でもわかってくれれば、ありがたいのですが。

ジャン=ジャック・ルソー「学問芸術論」

2017年7月28日金曜日

映像の流れは、個体の面での原子の位置と秩序とを保持しているが、周囲の大気中に、速やかに集像が生じることもある。

 映像の生成が思想と同時に、思想と同じ原子的速さで、起こるということを、どんな現われている事実も逆証しない。じっさい、物体の表面からの映像の流出はたえずおこなわているが、しかも、このことが物体の大きさの減少という結果となってわれわれに看取されることのないのは、たえず代りの原子によって補填がおこなわれるからである。そして、映像の流れは、ときに乱されることもあるけれども、長いあいだ、個体の面での原子の位置と秩序とを保持している。だがまた、周囲の大気中に、速やかに、集像が生じることもある。というのは、立体的に内部まで充実することは必要ではないからである。そのほかにも、このような実在を生じうる仕方はいろいろある。というのは、もしわれわれが、感覚は、われわれにたいし、外界の事物から、どんな仕方で明瞭性をもたらし、また、どのような仕方でその対応的性質、外界の事物に対応する性質、をもたらすであろうか、に着目するならば、これらの説明の仕方はどれも、感覚によって逆証されないからである。
エピクロス「教説と手紙」


2017年7月27日木曜日

市民的、国家的制度は神聖なものとして祭り上げられ、ついには超自然的な神がかりの法律に退化する。

 もし諸君がランシェ島に眼を向けるならば、次のことをあやしまずにいられないだろう。誰がここにこれだけの人間を配置したのか? どんな交通機関があって、彼らをよその人間とつながらせているのか? 彼らは直径一里そこそこの島にいるが、人口の増加するにつれて一体どうなるのか? このことについてブーガンヴィル氏は何も知らない。
 私なら最後の質問に対してこう答えるだろう。彼らは殺戮しあうか、共喰いをするか、彼らの繁殖が何らかの迷信的な法律によって遅らせるか、祭司の刀にかかって死ぬかである。また私ならこうも答えるだろう。時のたつにつれて、首を斬りあうことを名誉と考えるようになったにちがいない。あらゆる市民的、国家的制度は神聖なものとして祭り上げられ、ついには超自然的な神がかりの法律に退化する。またそれと反対に、あらゆる超自然な神がかりの法律は市民的、国家的法律に退化するうちに、牢固たるもの、永久不変のものとなる。これは人類の幸福と教育にとって、不詳きわまる悪循環の一つである。
ドゥニ・ディドロ「ブーガンヴィル航海記補遺」

2017年7月26日水曜日

不法なことをして生活することもあり、また法をまもって死ぬこともある。

   正しい方法による損失もあり、不正な方法による利得もある。不正な方法による利得よりも、正しい方法による損失の方がすぐれている。
 叡智の少ない人々が名声を得ることがあり、聡明な人々が不名誉を受けることもある。聡明な人々の受ける不名誉のほうが、叡智の少ない人々の得る名声よりもすぐれている。
 愚人から賞賛されることもあり、また識者から避難されることもある。愚者から称賛されるよりは、識者から非難されるほうがすぐれている。
 欲望の快楽から起こる快感もあり、また独り遠ざかり離れることから生ずる苦しみもある。欲望の快楽から起こる快感よりも、独り遠ざかり離れることから生じる苦しみのほうがすぐれている。
 不法なことをして生活することもあり、また法をまもって死ぬこともある。不法なことをして生活するよりは、法をまもって死ぬことのほうがすぐれている。
 快楽も怒りも捨て去って、種々なる生存のうちにあっても心静まり、執着することなく世の中を歩む人々、ーかれらには快も不快も存在しない。
 かれらは、さとりを得るための七つのことがら、五つのすぐれたはたらき、五つの力を修めて、最上の静けさに到達し、汚れなくして、円かな安らぎに入るであろう。
テーラガーター「仏弟子の告白」

2017年7月23日日曜日

わが国体の外国と異なる大義を明らかにし、国の人は国のために死し、各藩の人は各藩のために死し、臣は君のために死し、子は父のために死する。

 しかれどもこの論これ国体上より出で来る所なり。漢土にありては君道自ら別なり。たいてい聡明叡知億兆の上に傑出する者その君長となる道とす。ゆえに堯舜はその位を他人に譲り、湯武はその主を放伐すれども聖人に害なしとす。わが邦は上、天朝より下列藩に至るまで、千万世々襲して絶えざること中々漢土に比すべきに非ず。ゆえに漢土の臣はたとえば半季渡りの奴婢のごとし。その主の善悪を選んで伝移することもとよりその所なり。我邦の臣は譜代の臣なれば。主人と死生休戚を同ふし、死に至るといえども主を棄て去る道絶えてなし。ああ我父母は何国の人ぞ、我衣食は何国の物ぞ。書を読、道を知る、また誰が恩ぞ。今少しく主に遇わざるを以て、忽然としてそれを去る、人心において如何ぞや。われ孔孟を起して、この義を論ぜんと欲す。
 聞く、近世海外の諸国、各その賢智を推挙し、その政治を革新し、騒然として、上国を凌駕する勢あり。我何をもってかこれを制せん。他なし、前に論ずる所のわが国体の外国と異なるゆえんの大義を明らかにし、こう国の人はその国のために死し、各藩の人は各藩のために死し、臣は君のために死し、子は父のために死するの志確乎たらば、何ぞ諸変を畏れんや。願わくは諸君とともに従事せん。
吉田 松蔭「講孟余話」

2017年7月22日土曜日

目的を達成する上で助けとなる度合いに応じて、用いる必要があり、妨げとなる程度に応じて、放棄しなければならない。

 人間は創造されつつある。それは、主なる神を賛美し、敬い、仕えるため、また、それによって、自分の魂を救うためである。さらに、地上の他のものが創られつつあるのも、人間のためであり、人間が創られた目的を達成する上で、それらのものが人間を助けるためである。
 従って、人間は、それらのものが自分の目的を達成する上で助けとなる度合いに応じて、それらを用いる必要があり、妨げとなる程度に応じて、それらを放棄しなければならない。そのために、われわれは、自分の自由意志に委ねられ、禁じられていない限り、すべての被造物に対して、我々自身を不偏にする必要がある。それを具体的に言えば、われわれの方からは、病気よりも健康を、貧しさよりは富を、不名誉よりは名誉を、短命よりは長生きなどを好むことなく、ただわれわれが創られた目的へよりよく導くものだけを好み、選ぶべきである。
イグナチオ・デ・ロヨラ「霊操」

2017年7月21日金曜日

人類同胞の義を信ぜり、弱肉強食の現状を忌めり、世界一家の説を奉ぜり、現今の国家的競争を憎めり。

 余つねにおもえらく「世上いまだ人力の範囲を定限したるものあらず、軽々速断して小節に安んずるは、ただちにこれ天らいを暴てんするものなり」と。すべからく志を立つる遠大なるべきを思い、空前の偉業を建てて以って蒼生を安んぜんことを希えり。
 人あるいはいう「理想は理想なり、実行すべきにあらず」と。余おもえらく「理想は実行すべきものなり、実行すべからざるものは夢想なり」と。余は人類同胞の義を信ぜり、ゆえに弱肉強食の現状を忌めり。余は世界一家の説を奉ぜり、ゆえに現今の国家的競争を憎めり。忌むものは除かざるべからず、憎むものは破らざるべからず、しからば夢想におわる。ここにおいて余は腕力の必要を認めたり。然り、余は遂に世界革命者を以ってみずからに任ずるにいたれり。

宮崎 滔天「三十三年の夢」

2017年7月19日水曜日

歴史上の事件は、絶えず文化領域の境界を配列し直しているが、既存の言語上の裂け目をぬぐい去るわけではない。

 世間一般のひとは、人類の一般的分類表のなかで自分の占める位置を、立ち止まって分析することはしない。かれは、自分が人類のある強く統合された部分ーあるときは「国民」として、また、あるときは「人種」として考えられるーの代表者であり、この大きなグループの典型的な代表者としてのかれに関係するいっさいのものは、ともかくも同類である、と感じている。もしも、かれがイギリス人であれば、自分は「アングロ・サクソン」人種の一員であって、この人種の「精神」が、英語と、英語が表現している「アングロ・サクソン」文化を形成してきたのだ。と感じている。
 言語は、もとの発祥の地から遠く離れたところまで伝播し、新しい人種と新しい文化圏の領域に侵入することがある。ある言語が、最初に話された地域では絶滅して、その言語をもと話していたひとびとに激しい敵意をいだいている民族のあいだで、存続することすらある。さらに、歴史上のいろいろな事件は、絶えず文化領域の境界を配列し直しているが、必ずしも既存の言語上の裂け目をぬぐい去るわけではない。
 エドワード・サピア「言語ーことばの研究序説」

2017年7月18日火曜日

歴史は躍如たる画像を構成するために知識を使用することである。

 もしも歴史がただたんに過去の記録と考えるならば、初等教育の課程において歴史がなんらか大きな役割を演ずべきであると主張する、いかなる論拠もみいだすことは困難であろう。過去は過去である。死者には安らかにみずからを葬らせておけばいいのである。現在はあまりにも多くの緊切な要求に充たされており、未来の敷居をまたごうとするあまりにも多くの要請が存在しているので、永久に過ぎ去ってしましたものに子どもを没頭させておくわけにはゆかない。
 もし歴史教授の目的が、子どもをして社会生活の価値を評価し、人間相互間の有効な協同を助ける諸力、およびこれをさまたげる諸力を想像をとおして看取し、社会生活を助長するところの、またはこれを阻止するところの事物の種々なる性質を理解することを得させることであるならば、歴史を提示するばあいの最も本質的なことがらはその提示を運動的・力動的たらしめることである。歴史は、結果或いは影響の集積、すなわち生起したことのたんなる叙述としてではなくて、力にあふれた、活動しつつあるものとして提示されねばならなぬ。動機ーすなわち原動力ーが明らかにされねばならぬ。歴史を学習するということは、知識を蒐集するということではなくて、いかに、そしてなぜ人間はかくかくのことを為したか、いかに、そしてなぜかれらはその成功をかちえたか、或いはその失敗をまねくにいたったかについての躍如たる画像を構成するために知識を使用するということである。
ジョン・デューイ「学校と社会」

2017年7月17日月曜日

価値の世界では、絶対的な権威は存在せず、自分の個人的な神を主張して、訴え出る上級法廷はない。

 検証された法則は、すべての人間が言葉の上でも、行動の上でも従わなければならない、絶対的な権威を持つことになる。このような法則だけを取り扱っているので、科学の世界と価値の世界との間に一線を画する必要がある。価値の世界では、絶対的な権威は存在せず、個々がそれぞれ自分の個人的な神を主張しており、訴え出る上級法廷はないと考えられている。価値の世界の知恵は個人的な達成でしかなく、受け継ぐのが困難である。サートンは次のように書いている。「現代の聖人は、千年前の聖人より神々しい必要がない。私たちの時代の芸術家は、ギリシア初期の芸術家ほど偉大である必要もない。実際彼らは劣っていそうだ。そしてもちろん、私たちの科学者は昔の科学者より知性的である必要はない。しかし1つだけ確実に正確になっていくということだ。確実な知識の習得と体系化は、人間のみが行われる活動で、真に蓄積的で日々進歩するものである。」
エドウィン・ハッブル「銀河の世界」

2017年7月16日日曜日

事が終わった後で不平は全て不正であり、事の起こる前でも不正だった。

 「先ずよく反省し、或る場合には十分に熟慮した後でなければ行動も判断もしない」という堅い意志を以て、思いも掛けない現象に予め備えることは精神次第なのである。しかしそういう場合にこの力を使わない精神があるということも本当であり、のみならず永遠にわたって確実である。しかしそれ以上のことを誰が為し得よう。その精神は自分以外のものに不平がいわれようか。事が終わった後でこういう不平は全て不正である。それは事の起こる前でも不正だったはずである。ところで、その精神は、罪を犯す少し前には神に対して、まるで自分に罪を犯させるのは神ででもあるかのように、平気で不平を伝えた義理であろうか。こういう事柄に関する神の決定は予め知るわけにはいかない以上はその精神がすでに現実に罪を犯した時でなければどこから「罪を犯すにきまっている」ということが知れよう。
ゴッドフリート・ライプニツ :  「形而上学叙説」
三十 ただなぜ、罪人ユダが他の可能な人々を描いて特に実在を許されたかを問うべきであること 

2017年7月15日土曜日

沖縄語の撲滅を計り、標準語一式に改めに対し、無謀に反対して立った。

 沖縄の言語問題に私たちは一番思い出が深いのです。図らずも私たちはこの問題で県庁と対立し、時の知事や警察部長などと激しい論争になりました。ついには、官権が悪用され、私たちを抑圧するという態度に出ました。事の起こりは、県の方針として沖縄語の撲滅を計り、ただ標準語一式に改めようとしたことに対し、私たちはその無謀に反対して立ったのであります。その趣旨は標準語を学ぶべきであるのと同時に、方言の価値を尊重せよということでありました。私どもには常識に近いこの考えを、真向から反対されたので、私たちはそれをよい機会に一つの文化問題として取り上げ、公開状発しました。当時の学校の試験問題に「なぜ方言が悪いのか」という問いが出て、もし悪いと書かなければ落第されてしましいます。小学校の生徒で方言を遣うと、頸から札を掛けられ。いわゆる「札附」にさされる始末でありました。その当時の学務課は随分乱暴な行政を行ったものであります。

水尾 比呂志 編「柳宗悦 民藝紀行」

2017年7月14日金曜日

善及び悪はただ相対的にのみいわれる。

 事物はそれだけを見れば善とも悪ともあわれない。ただ他の事物に関連してのみそういわれる。即ち乙の事物がその愛するものを獲得するのに、甲の事物が益あるいは害になる時、甲の事物は乙の事物にとって善あるいは悪といわれるのである。だから各々の事物が異なった観点において同時に善とも悪ともいわれ得る。
 例えばアキトペルがアブサロムに与えた忠告は聖書では善と呼ばれている。しかし、ダビデにとっては最悪なものであったから。だが、一応善であれながらすべてのものとっては善であるとは限らないような善がほかにも多くある。例えば、救霊は人間とって善ではあるが、救霊などということに全然関係ない動物や食物にとっては善でも悪でもない。
 しかし神は最高の善といわれる。神は万物に役立つから、即ち神はその協力によって各物の存在ー各物にとって何よりも大切なーを維持してくれるからである。これに反して絶対的な悪というものは決して存在しない。これば自明のことである。
バールーフ・デ・スピノザ「デカルトの哲学原理」


2017年7月13日木曜日

教えを欲しない者があったら、粗暴な者を君候がその領土から追放するように告発するがよい。

 しかしこの教えを欲しない者があったら、彼らはキリストを否認しキリスト者でないことを明かにし、彼らの聖礼典に陪することを許さず、小児の洗礼に与からしめず、何れのキリスト教的自由をも停止し、むしろ当然に法皇と教会司法官とに委せ、さらに悪魔に付すことも止むを得ない。かつその両親や家長も彼らに飲食を禁じ、かかる粗暴な者を君候がその領土から追放するように告発するがよい。ただし何人にもせよ、これを強制して信仰に来らしめることはできないし又してはならないことであるが、しかし民衆を統制して、彼らの居住し食し生活しようと欲する場所にては正及び不正の何であるかを知らしめるのは緊要なことである。ある町に居住しようとする者は、その公益を享受しようとする限り、その町の法規を知りまた守らなければならない。神よ、かかる人をして信ずる者たらしめ給え、しかし彼らが信者たり得ないなら、せめて内心にてのみ不法邪悪者たるに止まらし給え。
マルティン・ルター、小信仰問答書「信仰要義」

2017年7月12日水曜日

自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ系の宗教の信者達だけである。

 自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ系の宗教の信者達だけである。ところが旧約聖書にも新約聖書にも、自殺に関する何らかの禁令も、否それを決定的に非難するような何らの言葉さえも見出されないのであるから、いよいよもってこれは奇怪である。そこで神学者達は自殺の非認せらるべきゆえんを彼ら自身の哲学的論議の上に基礎づけねばならぬことになるわけであるが、その議論たるや甚だもって怪しげなものなのであるから、彼らは議論に迫力の欠けているところは自殺に対する増悪の表現を強めることによって、即ち自殺を罵倒することによって補おうと努力しているのである。だからして我々は、自殺にまさる卑怯な行為はないとか、自殺は精神錯乱の状態においてのみ可能であるとか、いうような愚にもつかないことをきかされることになる。そうかと思うと、自殺は「不正」である、などという全くのナンセンスな文句まできかされる。一体誰にしても自分自身の身体と生命に関してほど争う余地のない権利をもっているものはこの世にほかに何もないということは明白ではないか。

アルトゥル・ショウペンハウエル、自殺について、「自殺について 他四編」


2017年7月11日火曜日

年久しく島人の心に染みこんだものを、さし替え置きかえる近世史の舞台は幾度となく廻転したのである。

 さらに強力な現世の強国との交通が繁くなるにつれて、徐々として信仰の態様は変わってきた。最もはっきりと表層に顕れているのは統一主義、按司のまた按司、テダの中の大テダと呼ばるる者が、天に照るテダと相煥発するという思想で、あらゆる公の祭祀はことこどく、是を中心に組織せられ経営せられ、それと相容れない地方の慣行は、少なくとも説明のしにくいものになった。第二の特徴としては天地陰陽、いわゆる両極思想の承認であって、是は疑いもなく輸入の王道観の根底を成すものだが、それについて行こうとすると、海の世界の所属がまず不明になる。しかし年久しく島人の心に染みこんだものを、一朝にさし替え置きかえることができないのは、どこの民族もみな同じことだが、ことに巫言をさながらに信じていた国では、まずこの人たちの経験を改めてゆく必要があって、それを気永に企てているうちに、近世史の舞台は幾度となく廻転したのである。

柳田 国男「海上の道」

2017年7月10日月曜日

勝利からは怨みが起こる。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。

〔尊師いわく、ー〕
 「生命は死に導かれる。寿命は短い・老いに導かれていった者には、救いがない。死についてのこの恐ろしいに注視して、世間の利欲を捨てて、静けさをめざせ。」
  「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのものに、一切のものが従属した。」
  「勝利からは怨みが起こる。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。」
  「或る物が人に役立つあいだは、その人は他人から掠奪する。次いで、他の人々がかれらから掠め取るときに、他人から掠め取った人が、掠奪されるのである。悪の報いが実らない間は、愚人は、それを当然のことだと考える。しかし悪の報いが実ったときに、愚者は苦悩を受ける。殺す物は殺され、怨む者は怨みを買う。また罵りわめく者は他の人から罵られ、怒りたける者は他の人から怒りを受ける。業の輪の輪廻によって、掠め取られた者が掠め取る。」
ゴーダマ・ブッダ「神々との対話ーサンユッタ・ニカーヤⅠー」


2017年7月9日日曜日

ある歴史家が市民たちに武器をもって襲いかかった戦いのことをごたごたとわかりにくく書いてあった。

 ところが、その歴史家というものがたいていは嘘をつくものだよ。少なくとも昔はそうだったね。わたしはジェイムズの『社会民主党史』とかいう本の中で、1887年かなんでもその頃に、この場所(トラファルガー広場: 1805年の海戦を記念して1845年に設置された)で起こったある戦いのことをごたごたとわかりにくく書いてあったのを読んだことがある。その話によると、なんでもある人びとがこの場所で区民大会というか、まあ何かそういったことをやろうとしたところが、ロンドンの都庁というか、参事会というか、とにかくそうした野蛮な、乳臭い馬鹿者どもの集りが、その市民たち(当時はそういうふうに呼んだものだ)に武器を以って襲いかかった。どうもあまりおかしな話でほんとうのこととは思えない。しかしこの本が伝えるところでは、このことから大したことが何一つ生じたわけでもなかったということだ。これこそますますもってこっけいで、とてもほんとうとは思えない。

ウィリアム・モリス : 第7章 トラファルガー広場「ユートピアだより」

2017年7月8日土曜日

民族の存在様態は、核心的のものである場合に、一定の意味は「言語」によって通路を開く。

 まず一般に言語というものは民族といかなる関係を有するのか。言語の内容たる意味と民族の存在とはいかなる関係に立つか。意味の妥当問題は意味の存在問題を無用になし得るものではない。否、往々、存在問題の方が原本的である。我々はまず与えられた具体から出発しなければならない。我々に直接に与えられているものは「我々」である。また我々の総合と考えられる「民族」である。そうして民族の存在様態は、その民族にとって核心的のものである場合に、一定の「意味」として現れてくる。また、その一定の意味は「言語」によって通路を開く。それ故に一の意味または言語は、一民族の過去および現在の存在様態の自己表明、歴史を有する特殊の文化の自己開示にほかならない。したがって、意味および言語と民族の意識的存在との関係は、前者が集合して後者を形成するのではなく、民族の生きた存在が意味および言語を創造するのである。両者の関係は、部分が全体に先立つ機械的構成関係ではなくて、全体が部分を規定する有機的構成関係を示している。それ故に、一民族の有する或る具体的意味または言語は、その民族の存在の表明として、民族の体験り特殊な色合いを帯びていないはずはない。

九鬼 周造「いきの構造」


2017年7月7日金曜日

本来のユダヤ人排斥は、危険な行き過ぎた感情の悪趣味な破廉恥な表出に思い違いをした。

  ヨーロッパはユダヤ人に何を負っているか。それは様々で、善いものも悪いものもあるが、何より最善でまた同時に最悪な一つのものがある。すなわち、道徳における巨怪な様式、無限の欲求、無限の意義をもつ恐怖と威厳、道徳的に疑わしいものの浪漫性と崇高性の全体がそれである。ー従って、これこそはあの色彩の変化と生の誘惑の最も魅力的で、最も宿業的で、最も精選された部分であって、これらのものの残照のうちに今日われわれのヨーロッパ文化の空が、その夕空が燃え、ー恐らくは燃え尽きようとしている。これに対して、われわれ傍観者であり哲学者であるもののうちの芸術家は、ユダヤ人にー感謝している。
 ユダヤ人についてであるが、まあ聞いてもらいたい。ー私はユダヤ人に対して好意的な考えを抱いていたようなドイツ人にいまだに会ったことはない。そして、本来のユダヤ人排斥はすべての用心深い人々や政治家たちの側から無条件に拒否されてはいるが、これらの用心や政策にしてもやはりそうした種類の感情そのものに反対しているのではなく、むしろ単にそうした感情の危険な行き過ぎを、特にこの行き過ぎた感情の悪趣味な破廉恥な表出に反対しているにすぎない。ーこの点について思い違いをしないようにしてもらいたい。ドイツには申し分なく多数のユダヤ人がいるということ、ドイツの胃、ドイツの血はこれだけの量のユダヤ人を始末するだけでも困難を感じる。
フリードリヒ・ニーチェ「民族と祖国」『善悪の悲願』

2017年7月6日木曜日

日本がヨーロッパの「列強」に対抗するため、所有する領土を相当に拡張し、国民の精神をたかめる侵略策が必要とみた。

 東アジアの征服という西郷隆盛の目的は、当時の世界情勢をみて必然的に生じたものでした。日本がヨーロッパの「列強」に対抗するためには、所有する領土を相当に拡張し、国民の精神をたかめるのに足る侵略策が必要とみたのです。それに加えて、西郷隆盛には自国が東アジアの指導者であるという一大使感が、ともかくあったと思われます。弱き者をたたく心づもりはさらさらなく、彼らを強き者に抗させ、おごれる者をたたきのめすことに、西郷は精神を傾け尽くしました。その理想とする英雄はジョージ・ワシントンであるといわれ、ナポレオン一派を強く忌み嫌っていた態度よりみて、西郷隆盛が決して低い野望のとりこでなかったことがよくわかります。
 西郷隆盛は、このように自国の使命に対し高い理想を抱いていましたが、それでもなお、十分な理由なしまま戦端を開くつもりはありませんでした。そのようなことをすれば、自分の尊ぶ「天」の法に反することになるでしょう。しかし、はからずも、ある機会が訪れました。西郷隆盛は当然、それを日本が世の始めから託された道にすすむため「天」の与えた機会と受取ました。
内村鑑三、西郷隆盛『代表的日本人』

2017年7月5日水曜日

感情は現在だけを見、理性は未来と時間の全体を見る点で異なり、現在の多くの想像力で理性は負ける。

 もしも感情それ自身が御しやすくて、理性に従順なものであったら、意志に対する説得と巧言などを用いる必要はたいしてなく、ただの命題と証明だけで十分であろうが、しかし、感情がたえずむほんをおこし扇動する、
「よいほうの道はわかっており、そのほうがよいと思う。しかし、わたしはわるいほうの道をたどる」
 のをみると、もし説得の雄弁がうまくやって、想像力を感情の側からこちらの味方に引き入れ、理性と想像力との同盟を結んで、感情と対抗しなければ、理性は捕虜と奴隷になるであろう。というのは、感情そのものにも、理性と同じように、つねに、善への欲求があるが、感情は現在だけを見、理性は未来と時間の全体を見るという点で異なり、そしてそれゆえ、現在のほうがいっそう多くの想像力をみたすので、理性はふつう負かされてしまうからである。しかし、雄弁と説得との力が遠いものを、現在のように見えさせてしまえば、そのときは、想像力の寝返りで、理性が勝つのである。
フランシス・ベーコン「学問の進歩」