「思い出の戦争」だけは真の戦争の抑止力となります。戦争により、横たわり、苦しんでいる市民を静かに見守る事しかできない。 戦争を目前にして、市民の地域と家族における存在の尊厳が失われている。 生活が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは僅かな存在にすぎない市民である。戦争の持つ悲惨な歴史を共感できない事にもよる。 世界大戦の戦争から原爆による終止符の犠牲で、市民は多くの辛酸を受けた。 戦争と貴重な経験による平和市民が読み継いだ「日本思い出の戦争」を授けたい。 戦争の荒波を渡ろうとしている市民代弁者として日本思い出の戦争をまとめる。 ささやかな戦争のメッセージである日本思い出の戦争記を平和市民に送り捧げたいために。@Jan/1/2016, JNW, japan.nowar@gmail.com
2017年7月28日金曜日
映像の流れは、個体の面での原子の位置と秩序とを保持しているが、周囲の大気中に、速やかに集像が生じることもある。
映像の生成が思想と同時に、思想と同じ原子的速さで、起こるということを、どんな現われている事実も逆証しない。じっさい、物体の表面からの映像の流出はたえずおこなわているが、しかも、このことが物体の大きさの減少という結果となってわれわれに看取されることのないのは、たえず代りの原子によって補填がおこなわれるからである。そして、映像の流れは、ときに乱されることもあるけれども、長いあいだ、個体の面での原子の位置と秩序とを保持している。だがまた、周囲の大気中に、速やかに、集像が生じることもある。というのは、立体的に内部まで充実することは必要ではないからである。そのほかにも、このような実在を生じうる仕方はいろいろある。というのは、もしわれわれが、感覚は、われわれにたいし、外界の事物から、どんな仕方で明瞭性をもたらし、また、どのような仕方でその対応的性質、外界の事物に対応する性質、をもたらすであろうか、に着目するならば、これらの説明の仕方はどれも、感覚によって逆証されないからである。
エピクロス「教説と手紙」
2017年7月27日木曜日
市民的、国家的制度は神聖なものとして祭り上げられ、ついには超自然的な神がかりの法律に退化する。
もし諸君がランシェ島に眼を向けるならば、次のことをあやしまずにいられないだろう。誰がここにこれだけの人間を配置したのか? どんな交通機関があって、彼らをよその人間とつながらせているのか? 彼らは直径一里そこそこの島にいるが、人口の増加するにつれて一体どうなるのか? このことについてブーガンヴィル氏は何も知らない。
私なら最後の質問に対してこう答えるだろう。彼らは殺戮しあうか、共喰いをするか、彼らの繁殖が何らかの迷信的な法律によって遅らせるか、祭司の刀にかかって死ぬかである。また私ならこうも答えるだろう。時のたつにつれて、首を斬りあうことを名誉と考えるようになったにちがいない。あらゆる市民的、国家的制度は神聖なものとして祭り上げられ、ついには超自然的な神がかりの法律に退化する。またそれと反対に、あらゆる超自然な神がかりの法律は市民的、国家的法律に退化するうちに、牢固たるもの、永久不変のものとなる。これは人類の幸福と教育にとって、不詳きわまる悪循環の一つである。
ドゥニ・ディドロ「ブーガンヴィル航海記補遺」
2017年7月26日水曜日
不法なことをして生活することもあり、また法をまもって死ぬこともある。
正しい方法による損失もあり、不正な方法による利得もある。不正な方法による利得よりも、正しい方法による損失の方がすぐれている。
叡智の少ない人々が名声を得ることがあり、聡明な人々が不名誉を受けることもある。聡明な人々の受ける不名誉のほうが、叡智の少ない人々の得る名声よりもすぐれている。
愚人から賞賛されることもあり、また識者から避難されることもある。愚者から称賛されるよりは、識者から非難されるほうがすぐれている。
欲望の快楽から起こる快感もあり、また独り遠ざかり離れることから生ずる苦しみもある。欲望の快楽から起こる快感よりも、独り遠ざかり離れることから生じる苦しみのほうがすぐれている。
不法なことをして生活することもあり、また法をまもって死ぬこともある。不法なことをして生活するよりは、法をまもって死ぬことのほうがすぐれている。
快楽も怒りも捨て去って、種々なる生存のうちにあっても心静まり、執着することなく世の中を歩む人々、ーかれらには快も不快も存在しない。
かれらは、さとりを得るための七つのことがら、五つのすぐれたはたらき、五つの力を修めて、最上の静けさに到達し、汚れなくして、円かな安らぎに入るであろう。
テーラガーター「仏弟子の告白」
2017年7月23日日曜日
わが国体の外国と異なる大義を明らかにし、国の人は国のために死し、各藩の人は各藩のために死し、臣は君のために死し、子は父のために死する。
しかれどもこの論これ国体上より出で来る所なり。漢土にありては君道自ら別なり。たいてい聡明叡知億兆の上に傑出する者その君長となる道とす。ゆえに堯舜はその位を他人に譲り、湯武はその主を放伐すれども聖人に害なしとす。わが邦は上、天朝より下列藩に至るまで、千万世々襲して絶えざること中々漢土に比すべきに非ず。ゆえに漢土の臣はたとえば半季渡りの奴婢のごとし。その主の善悪を選んで伝移することもとよりその所なり。我邦の臣は譜代の臣なれば。主人と死生休戚を同ふし、死に至るといえども主を棄て去る道絶えてなし。ああ我父母は何国の人ぞ、我衣食は何国の物ぞ。書を読、道を知る、また誰が恩ぞ。今少しく主に遇わざるを以て、忽然としてそれを去る、人心において如何ぞや。われ孔孟を起して、この義を論ぜんと欲す。
聞く、近世海外の諸国、各その賢智を推挙し、その政治を革新し、騒然として、上国を凌駕する勢あり。我何をもってかこれを制せん。他なし、前に論ずる所のわが国体の外国と異なるゆえんの大義を明らかにし、こう国の人はその国のために死し、各藩の人は各藩のために死し、臣は君のために死し、子は父のために死するの志確乎たらば、何ぞ諸変を畏れんや。願わくは諸君とともに従事せん。
吉田 松蔭「講孟余話」
吉田 松蔭「講孟余話」
2017年7月22日土曜日
目的を達成する上で助けとなる度合いに応じて、用いる必要があり、妨げとなる程度に応じて、放棄しなければならない。
人間は創造されつつある。それは、主なる神を賛美し、敬い、仕えるため、また、それによって、自分の魂を救うためである。さらに、地上の他のものが創られつつあるのも、人間のためであり、人間が創られた目的を達成する上で、それらのものが人間を助けるためである。
従って、人間は、それらのものが自分の目的を達成する上で助けとなる度合いに応じて、それらを用いる必要があり、妨げとなる程度に応じて、それらを放棄しなければならない。そのために、われわれは、自分の自由意志に委ねられ、禁じられていない限り、すべての被造物に対して、我々自身を不偏にする必要がある。それを具体的に言えば、われわれの方からは、病気よりも健康を、貧しさよりは富を、不名誉よりは名誉を、短命よりは長生きなどを好むことなく、ただわれわれが創られた目的へよりよく導くものだけを好み、選ぶべきである。
イグナチオ・デ・ロヨラ「霊操」
2017年7月21日金曜日
人類同胞の義を信ぜり、弱肉強食の現状を忌めり、世界一家の説を奉ぜり、現今の国家的競争を憎めり。
余つねにおもえらく「世上いまだ人力の範囲を定限したるものあらず、軽々速断して小節に安んずるは、ただちにこれ天らいを暴てんするものなり」と。すべからく志を立つる遠大なるべきを思い、空前の偉業を建てて以って蒼生を安んぜんことを希えり。
人あるいはいう「理想は理想なり、実行すべきにあらず」と。余おもえらく「理想は実行すべきものなり、実行すべからざるものは夢想なり」と。余は人類同胞の義を信ぜり、ゆえに弱肉強食の現状を忌めり。余は世界一家の説を奉ぜり、ゆえに現今の国家的競争を憎めり。忌むものは除かざるべからず、憎むものは破らざるべからず、しからば夢想におわる。ここにおいて余は腕力の必要を認めたり。然り、余は遂に世界革命者を以ってみずからに任ずるにいたれり。
宮崎 滔天「三十三年の夢」
2017年7月19日水曜日
歴史上の事件は、絶えず文化領域の境界を配列し直しているが、既存の言語上の裂け目をぬぐい去るわけではない。
世間一般のひとは、人類の一般的分類表のなかで自分の占める位置を、立ち止まって分析することはしない。かれは、自分が人類のある強く統合された部分ーあるときは「国民」として、また、あるときは「人種」として考えられるーの代表者であり、この大きなグループの典型的な代表者としてのかれに関係するいっさいのものは、ともかくも同類である、と感じている。もしも、かれがイギリス人であれば、自分は「アングロ・サクソン」人種の一員であって、この人種の「精神」が、英語と、英語が表現している「アングロ・サクソン」文化を形成してきたのだ。と感じている。
言語は、もとの発祥の地から遠く離れたところまで伝播し、新しい人種と新しい文化圏の領域に侵入することがある。ある言語が、最初に話された地域では絶滅して、その言語をもと話していたひとびとに激しい敵意をいだいている民族のあいだで、存続することすらある。さらに、歴史上のいろいろな事件は、絶えず文化領域の境界を配列し直しているが、必ずしも既存の言語上の裂け目をぬぐい去るわけではない。
エドワード・サピア「言語ーことばの研究序説」
2017年7月18日火曜日
歴史は躍如たる画像を構成するために知識を使用することである。
もしも歴史がただたんに過去の記録と考えるならば、初等教育の課程において歴史がなんらか大きな役割を演ずべきであると主張する、いかなる論拠もみいだすことは困難であろう。過去は過去である。死者には安らかにみずからを葬らせておけばいいのである。現在はあまりにも多くの緊切な要求に充たされており、未来の敷居をまたごうとするあまりにも多くの要請が存在しているので、永久に過ぎ去ってしましたものに子どもを没頭させておくわけにはゆかない。
もし歴史教授の目的が、子どもをして社会生活の価値を評価し、人間相互間の有効な協同を助ける諸力、およびこれをさまたげる諸力を想像をとおして看取し、社会生活を助長するところの、またはこれを阻止するところの事物の種々なる性質を理解することを得させることであるならば、歴史を提示するばあいの最も本質的なことがらはその提示を運動的・力動的たらしめることである。歴史は、結果或いは影響の集積、すなわち生起したことのたんなる叙述としてではなくて、力にあふれた、活動しつつあるものとして提示されねばならなぬ。動機ーすなわち原動力ーが明らかにされねばならぬ。歴史を学習するということは、知識を蒐集するということではなくて、いかに、そしてなぜ人間はかくかくのことを為したか、いかに、そしてなぜかれらはその成功をかちえたか、或いはその失敗をまねくにいたったかについての躍如たる画像を構成するために知識を使用するということである。
ジョン・デューイ「学校と社会」
2017年7月17日月曜日
価値の世界では、絶対的な権威は存在せず、自分の個人的な神を主張して、訴え出る上級法廷はない。
検証された法則は、すべての人間が言葉の上でも、行動の上でも従わなければならない、絶対的な権威を持つことになる。このような法則だけを取り扱っているので、科学の世界と価値の世界との間に一線を画する必要がある。価値の世界では、絶対的な権威は存在せず、個々がそれぞれ自分の個人的な神を主張しており、訴え出る上級法廷はないと考えられている。価値の世界の知恵は個人的な達成でしかなく、受け継ぐのが困難である。サートンは次のように書いている。「現代の聖人は、千年前の聖人より神々しい必要がない。私たちの時代の芸術家は、ギリシア初期の芸術家ほど偉大である必要もない。実際彼らは劣っていそうだ。そしてもちろん、私たちの科学者は昔の科学者より知性的である必要はない。しかし1つだけ確実に正確になっていくということだ。確実な知識の習得と体系化は、人間のみが行われる活動で、真に蓄積的で日々進歩するものである。」
エドウィン・ハッブル「銀河の世界」
2017年7月16日日曜日
事が終わった後で不平は全て不正であり、事の起こる前でも不正だった。
「先ずよく反省し、或る場合には十分に熟慮した後でなければ行動も判断もしない」という堅い意志を以て、思いも掛けない現象に予め備えることは精神次第なのである。しかしそういう場合にこの力を使わない精神があるということも本当であり、のみならず永遠にわたって確実である。しかしそれ以上のことを誰が為し得よう。その精神は自分以外のものに不平がいわれようか。事が終わった後でこういう不平は全て不正である。それは事の起こる前でも不正だったはずである。ところで、その精神は、罪を犯す少し前には神に対して、まるで自分に罪を犯させるのは神ででもあるかのように、平気で不平を伝えた義理であろうか。こういう事柄に関する神の決定は予め知るわけにはいかない以上はその精神がすでに現実に罪を犯した時でなければどこから「罪を犯すにきまっている」ということが知れよう。
ゴッドフリート・ライプニツ : 「形而上学叙説」
三十 ただなぜ、罪人ユダが他の可能な人々を描いて特に実在を許されたかを問うべきであること
2017年7月15日土曜日
沖縄語の撲滅を計り、標準語一式に改めに対し、無謀に反対して立った。
沖縄の言語問題に私たちは一番思い出が深いのです。図らずも私たちはこの問題で県庁と対立し、時の知事や警察部長などと激しい論争になりました。ついには、官権が悪用され、私たちを抑圧するという態度に出ました。事の起こりは、県の方針として沖縄語の撲滅を計り、ただ標準語一式に改めようとしたことに対し、私たちはその無謀に反対して立ったのであります。その趣旨は標準語を学ぶべきであるのと同時に、方言の価値を尊重せよということでありました。私どもには常識に近いこの考えを、真向から反対されたので、私たちはそれをよい機会に一つの文化問題として取り上げ、公開状発しました。当時の学校の試験問題に「なぜ方言が悪いのか」という問いが出て、もし悪いと書かなければ落第されてしましいます。小学校の生徒で方言を遣うと、頸から札を掛けられ。いわゆる「札附」にさされる始末でありました。その当時の学務課は随分乱暴な行政を行ったものであります。
水尾 比呂志 編「柳宗悦 民藝紀行」
2017年7月14日金曜日
善及び悪はただ相対的にのみいわれる。
事物はそれだけを見れば善とも悪ともあわれない。ただ他の事物に関連してのみそういわれる。即ち乙の事物がその愛するものを獲得するのに、甲の事物が益あるいは害になる時、甲の事物は乙の事物にとって善あるいは悪といわれるのである。だから各々の事物が異なった観点において同時に善とも悪ともいわれ得る。
例えばアキトペルがアブサロムに与えた忠告は聖書では善と呼ばれている。しかし、ダビデにとっては最悪なものであったから。だが、一応善であれながらすべてのものとっては善であるとは限らないような善がほかにも多くある。例えば、救霊は人間とって善ではあるが、救霊などということに全然関係ない動物や食物にとっては善でも悪でもない。
しかし神は最高の善といわれる。神は万物に役立つから、即ち神はその協力によって各物の存在ー各物にとって何よりも大切なーを維持してくれるからである。これに反して絶対的な悪というものは決して存在しない。これば自明のことである。
バールーフ・デ・スピノザ「デカルトの哲学原理」
2017年7月13日木曜日
教えを欲しない者があったら、粗暴な者を君候がその領土から追放するように告発するがよい。
しかしこの教えを欲しない者があったら、彼らはキリストを否認しキリスト者でないことを明かにし、彼らの聖礼典に陪することを許さず、小児の洗礼に与からしめず、何れのキリスト教的自由をも停止し、むしろ当然に法皇と教会司法官とに委せ、さらに悪魔に付すことも止むを得ない。かつその両親や家長も彼らに飲食を禁じ、かかる粗暴な者を君候がその領土から追放するように告発するがよい。ただし何人にもせよ、これを強制して信仰に来らしめることはできないし又してはならないことであるが、しかし民衆を統制して、彼らの居住し食し生活しようと欲する場所にては正及び不正の何であるかを知らしめるのは緊要なことである。ある町に居住しようとする者は、その公益を享受しようとする限り、その町の法規を知りまた守らなければならない。神よ、かかる人をして信ずる者たらしめ給え、しかし彼らが信者たり得ないなら、せめて内心にてのみ不法邪悪者たるに止まらし給え。
マルティン・ルター、小信仰問答書「信仰要義」
2017年7月12日水曜日
自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ系の宗教の信者達だけである。
自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ系の宗教の信者達だけである。ところが旧約聖書にも新約聖書にも、自殺に関する何らかの禁令も、否それを決定的に非難するような何らの言葉さえも見出されないのであるから、いよいよもってこれは奇怪である。そこで神学者達は自殺の非認せらるべきゆえんを彼ら自身の哲学的論議の上に基礎づけねばならぬことになるわけであるが、その議論たるや甚だもって怪しげなものなのであるから、彼らは議論に迫力の欠けているところは自殺に対する増悪の表現を強めることによって、即ち自殺を罵倒することによって補おうと努力しているのである。だからして我々は、自殺にまさる卑怯な行為はないとか、自殺は精神錯乱の状態においてのみ可能であるとか、いうような愚にもつかないことをきかされることになる。そうかと思うと、自殺は「不正」である、などという全くのナンセンスな文句まできかされる。一体誰にしても自分自身の身体と生命に関してほど争う余地のない権利をもっているものはこの世にほかに何もないということは明白ではないか。
アルトゥル・ショウペンハウエル、自殺について、「自殺について 他四編」
2017年7月11日火曜日
年久しく島人の心に染みこんだものを、さし替え置きかえる近世史の舞台は幾度となく廻転したのである。
さらに強力な現世の強国との交通が繁くなるにつれて、徐々として信仰の態様は変わってきた。最もはっきりと表層に顕れているのは統一主義、按司のまた按司、テダの中の大テダと呼ばるる者が、天に照るテダと相煥発するという思想で、あらゆる公の祭祀はことこどく、是を中心に組織せられ経営せられ、それと相容れない地方の慣行は、少なくとも説明のしにくいものになった。第二の特徴としては天地陰陽、いわゆる両極思想の承認であって、是は疑いもなく輸入の王道観の根底を成すものだが、それについて行こうとすると、海の世界の所属がまず不明になる。しかし年久しく島人の心に染みこんだものを、一朝にさし替え置きかえることができないのは、どこの民族もみな同じことだが、ことに巫言をさながらに信じていた国では、まずこの人たちの経験を改めてゆく必要があって、それを気永に企てているうちに、近世史の舞台は幾度となく廻転したのである。
柳田 国男「海上の道」
2017年7月10日月曜日
勝利からは怨みが起こる。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。
〔尊師いわく、ー〕
「生命は死に導かれる。寿命は短い・老いに導かれていった者には、救いがない。死についてのこの恐ろしいに注視して、世間の利欲を捨てて、静けさをめざせ。」
「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのものに、一切のものが従属した。」
「勝利からは怨みが起こる。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。」
「或る物が人に役立つあいだは、その人は他人から掠奪する。次いで、他の人々がかれらから掠め取るときに、他人から掠め取った人が、掠奪されるのである。悪の報いが実らない間は、愚人は、それを当然のことだと考える。しかし悪の報いが実ったときに、愚者は苦悩を受ける。殺す物は殺され、怨む者は怨みを買う。また罵りわめく者は他の人から罵られ、怒りたける者は他の人から怒りを受ける。業の輪の輪廻によって、掠め取られた者が掠め取る。」
ゴーダマ・ブッダ「神々との対話ーサンユッタ・ニカーヤⅠー」
2017年7月9日日曜日
ある歴史家が市民たちに武器をもって襲いかかった戦いのことをごたごたとわかりにくく書いてあった。
ところが、その歴史家というものがたいていは嘘をつくものだよ。少なくとも昔はそうだったね。わたしはジェイムズの『社会民主党史』とかいう本の中で、1887年かなんでもその頃に、この場所(トラファルガー広場: 1805年の海戦を記念して1845年に設置された)で起こったある戦いのことをごたごたとわかりにくく書いてあったのを読んだことがある。その話によると、なんでもある人びとがこの場所で区民大会というか、まあ何かそういったことをやろうとしたところが、ロンドンの都庁というか、参事会というか、とにかくそうした野蛮な、乳臭い馬鹿者どもの集りが、その市民たち(当時はそういうふうに呼んだものだ)に武器を以って襲いかかった。どうもあまりおかしな話でほんとうのこととは思えない。しかしこの本が伝えるところでは、このことから大したことが何一つ生じたわけでもなかったということだ。これこそますますもってこっけいで、とてもほんとうとは思えない。
ウィリアム・モリス : 第7章 トラファルガー広場「ユートピアだより」
2017年7月8日土曜日
民族の存在様態は、核心的のものである場合に、一定の意味は「言語」によって通路を開く。
まず一般に言語というものは民族といかなる関係を有するのか。言語の内容たる意味と民族の存在とはいかなる関係に立つか。意味の妥当問題は意味の存在問題を無用になし得るものではない。否、往々、存在問題の方が原本的である。我々はまず与えられた具体から出発しなければならない。我々に直接に与えられているものは「我々」である。また我々の総合と考えられる「民族」である。そうして民族の存在様態は、その民族にとって核心的のものである場合に、一定の「意味」として現れてくる。また、その一定の意味は「言語」によって通路を開く。それ故に一の意味または言語は、一民族の過去および現在の存在様態の自己表明、歴史を有する特殊の文化の自己開示にほかならない。したがって、意味および言語と民族の意識的存在との関係は、前者が集合して後者を形成するのではなく、民族の生きた存在が意味および言語を創造するのである。両者の関係は、部分が全体に先立つ機械的構成関係ではなくて、全体が部分を規定する有機的構成関係を示している。それ故に、一民族の有する或る具体的意味または言語は、その民族の存在の表明として、民族の体験り特殊な色合いを帯びていないはずはない。
九鬼 周造「いきの構造」
2017年7月7日金曜日
本来のユダヤ人排斥は、危険な行き過ぎた感情の悪趣味な破廉恥な表出に思い違いをした。
ヨーロッパはユダヤ人に何を負っているか。それは様々で、善いものも悪いものもあるが、何より最善でまた同時に最悪な一つのものがある。すなわち、道徳における巨怪な様式、無限の欲求、無限の意義をもつ恐怖と威厳、道徳的に疑わしいものの浪漫性と崇高性の全体がそれである。ー従って、これこそはあの色彩の変化と生の誘惑の最も魅力的で、最も宿業的で、最も精選された部分であって、これらのものの残照のうちに今日われわれのヨーロッパ文化の空が、その夕空が燃え、ー恐らくは燃え尽きようとしている。これに対して、われわれ傍観者であり哲学者であるもののうちの芸術家は、ユダヤ人にー感謝している。
ユダヤ人についてであるが、まあ聞いてもらいたい。ー私はユダヤ人に対して好意的な考えを抱いていたようなドイツ人にいまだに会ったことはない。そして、本来のユダヤ人排斥はすべての用心深い人々や政治家たちの側から無条件に拒否されてはいるが、これらの用心や政策にしてもやはりそうした種類の感情そのものに反対しているのではなく、むしろ単にそうした感情の危険な行き過ぎを、特にこの行き過ぎた感情の悪趣味な破廉恥な表出に反対しているにすぎない。ーこの点について思い違いをしないようにしてもらいたい。ドイツには申し分なく多数のユダヤ人がいるということ、ドイツの胃、ドイツの血はこれだけの量のユダヤ人を始末するだけでも困難を感じる。
フリードリヒ・ニーチェ「民族と祖国」『善悪の悲願』
2017年7月6日木曜日
日本がヨーロッパの「列強」に対抗するため、所有する領土を相当に拡張し、国民の精神をたかめる侵略策が必要とみた。
東アジアの征服という西郷隆盛の目的は、当時の世界情勢をみて必然的に生じたものでした。日本がヨーロッパの「列強」に対抗するためには、所有する領土を相当に拡張し、国民の精神をたかめるのに足る侵略策が必要とみたのです。それに加えて、西郷隆盛には自国が東アジアの指導者であるという一大使感が、ともかくあったと思われます。弱き者をたたく心づもりはさらさらなく、彼らを強き者に抗させ、おごれる者をたたきのめすことに、西郷は精神を傾け尽くしました。その理想とする英雄はジョージ・ワシントンであるといわれ、ナポレオン一派を強く忌み嫌っていた態度よりみて、西郷隆盛が決して低い野望のとりこでなかったことがよくわかります。
西郷隆盛は、このように自国の使命に対し高い理想を抱いていましたが、それでもなお、十分な理由なしまま戦端を開くつもりはありませんでした。そのようなことをすれば、自分の尊ぶ「天」の法に反することになるでしょう。しかし、はからずも、ある機会が訪れました。西郷隆盛は当然、それを日本が世の始めから託された道にすすむため「天」の与えた機会と受取ました。
内村鑑三、西郷隆盛『代表的日本人』
2017年7月5日水曜日
感情は現在だけを見、理性は未来と時間の全体を見る点で異なり、現在の多くの想像力で理性は負ける。
もしも感情それ自身が御しやすくて、理性に従順なものであったら、意志に対する説得と巧言などを用いる必要はたいしてなく、ただの命題と証明だけで十分であろうが、しかし、感情がたえずむほんをおこし扇動する、
「よいほうの道はわかっており、そのほうがよいと思う。しかし、わたしはわるいほうの道をたどる」
のをみると、もし説得の雄弁がうまくやって、想像力を感情の側からこちらの味方に引き入れ、理性と想像力との同盟を結んで、感情と対抗しなければ、理性は捕虜と奴隷になるであろう。というのは、感情そのものにも、理性と同じように、つねに、善への欲求があるが、感情は現在だけを見、理性は未来と時間の全体を見るという点で異なり、そしてそれゆえ、現在のほうがいっそう多くの想像力をみたすので、理性はふつう負かされてしまうからである。しかし、雄弁と説得との力が遠いものを、現在のように見えさせてしまえば、そのときは、想像力の寝返りで、理性が勝つのである。
フランシス・ベーコン「学問の進歩」
2017年6月29日木曜日
天才はただ一つのことにしか役に立たないでそれから先はろくでなしなんだ。
あの人が誰かにそんなことをしてくれるとすれば、そりゃなんかの間違いでやるんです。あれもあれなりに哲学者ですからな。あれは自分のことだけしか考えちゃいない。自分以外の世界のことはあの人にとっちゃ一文の価値もありませんや。娘と女房は好きな時に死ねばいいんで。彼女たちのために鳴らされる教区の鐘が十二度と十七度の音とをいつまでも響かせていさえすれば、なにもかもそれでいいんです。それがあの人にとって幸福なことなんでさあ。これが私が天才というやつのうちでとくに買っている点ですよ。
彼らはただ一つのことにしか役に立たないですることそれから先は、ろくでなしなんだ。市民とか、父親とか、母親とか、友だちとかであることがどんなことだか、彼らにゃわかりゃしません。ここだけの話ですがね、ひとはあらゆる点で彼らに似るようにしなければなりませんな。もっとも天才の種がだれにもあることを望んだってだめです。普通の人間が必要なのです。天才なんかいりませんや。いやまったく、そんなものはちっとも必要じゃない。ところが、地球の表面を変化させるのは彼らなのだ。しかも、どんな些細な事柄についても、人間の馬鹿さかげんはひどく行き渡っていて根強いもんだから、わいわい騒ぎたてなくちゃその改革なんかできっこないのです。彼ら天才の想像したことの一部は実現されていますが、一部は前のとおりです。
ドゥニ・ディドロ「ラモーの甥」
2017年6月28日水曜日
軍事的侵略による、平時の民族移動等による異系交配から、一定の時期を経て、著変の時代が来る。
異系交配は、軍事的侵略により、平時の民族移動により、また以前にはカースト的にそれぞれ閉鎖的であった諸階級が混交すること等によって行われる。かかる交配があってのち、一定の時期を経て、著しい天才輩出の時代、すなわち高い文化の時代が来る。そしてこの時代は、その基礎となった生物学的作用のつづくかぎり存続する。
この文化が「死滅」するのには二通りの生物学的道程がある。一つは、この文化民族の繁殖力には支障がないが、交配によって得た精神上の酵素作用が尽き果て、その上、引きつづく長い期間の同系交配のために、精神の無気力な硬化がもたらされるもの、いわば中国型ともいうべきものであり、次は、生殖本能が文化のために害されて急速な人口の減少が起こり、その結果、崩壊の道程をたどるもの、いわば後期ローマ型とも称すべきものである。
しかしこの二つの場合にも、土着の人種がさらに他の適当な人種と新たな交配を行うことによって、ふたたび新たな文化を建設し、天才時代を招来する可能性は生物学的に残されている。かつまた理論的には、このような過程が無限に繰り返され得るわけである。事実長命を保った古代文化、たとえばエジプト文化やアッシリア・バビロニア文化等は、このような交配の反復によって、同一地盤の上に文化を更新すること幾たびに及んだものである。
エルンスト・クレッチマー『天才の心理学』
2017年6月26日月曜日
第一次世界大戦の間は、新聞や雑誌はとかく現在の恐ろしい不安から目を転じた。
第一次世界大戦の間、新聞や雑誌はとかく現在の恐しい不安から目を転じて、後に平和が回復した上で何が行われるかを考えたものである。特に文学の将来が問題となっていた。ある日私のところへ人が来てそれをどう考えるかと尋ねた。私も少し困って、そういう事は考えていないと言明した。『せめて何か可能な方向をお考えになりませんか。それは誰にも細かいところまでは予見できないとは認めても、哲学者である先生には全体の観念というものはおありでしょう。例えば今後の大きな劇作がどうお考えになります。』と言った。『私に今後の大きな劇作がどんな物だかわかれば、私が書きますよ。』と言った時の相手の驚きは、いつまでも忘れないであろう。私には相手が、その時からちゃんと将来の作品が可能なものを秘めたなんだかわからない戸棚の中に仕舞ってあるように考えていることがはっきりとわかった。
そこで私はすでに古くから持っている哲学との交渉を考えてみれば、その哲学から戸棚の鍵を手に入れているはずだと思われたのである。『しかしあなたの言う作品は可能ではない。』と言った。ー『そうは仰有つてもその作品が後で出て来るものですから可能に決まっています。』ー『いや可能ではありません。せいぜいその作品が可能だったということになるだろうと認めるだけです。』ー『なに簡単なことですよ。才能もしくは天才のある人が、突然出て来て一つの作品を創造する。そうするとその作品が事象的になり、正にそれによってそれからは、後で逆に眺めると、又は後から逆に作用するものとして可能になります。しかしその人が現れて来なかったとすれば可能になりませんし、可能だったことにもなりません。それで私はその作品が今日可能だったことになるでしょうが、まだ可能ではないというのです。』
アンリ・ベルクソン「可能性と事象」『哲学的直感ー思想と動くもの』
2017年6月25日日曜日
戦争は明らかに人を殺して是認しているが、一体倫理は人を殺すことを是認するのか。
現在の人間の最も願っているものは『平和』である。平和とは一体何か。真の平和をいうならば武力の戦が終わっても資源戦、経済戦など結局人類の滅亡まで、平和は到来しないであろう。最近の書物にちょいちょい見られるのは戦争の倫理性ということである。戦争の倫理性なんて有り得るものであろうか。人を殺せば当然、死刑になる、それは人を殺したからである。戦争は明らかに人を殺している。その戦争を倫理上是認するなんて、一体倫理は人を殺すことを是認するのか。大乗の立場、大乗の立場と強調される。大乗の立場から戦争をみるなら何故人を殺さぬでもよいようにしないのか。人を殺している間に大乗、小乗の区別はあるものか、すべて悪である。死んだ人間に生を与えるなんて、近代の哲学の現実に対するへつらいにすぎない。哲学はあくまでリードするものであるはずだ。過ぎ去った者に道徳性を与えるなど、文化の恥辱、人間の自己行為の欺瞞だ。
戦争、戦争、戦争、それは現在の自分にとってあまりにもつよい宿命的な存在である。世はまさに闇だ。戦争に何の倫理があるのだ、大義のための戦、大義なんて何だ。痴者の寝言にすぎない。宿命と感ずる以上、自分は戦いに出ることは何とも思わない。しかし、それで宿命は解決されるのであろうか。
松岡欽平(東京大学経済学部学生、1945年5月ビルマにて戦死。22歳)
日本戦没学生記念会編「きけ わだつみのこえ」
戦争、戦争、戦争、それは現在の自分にとってあまりにもつよい宿命的な存在である。世はまさに闇だ。戦争に何の倫理があるのだ、大義のための戦、大義なんて何だ。痴者の寝言にすぎない。宿命と感ずる以上、自分は戦いに出ることは何とも思わない。しかし、それで宿命は解決されるのであろうか。
2017年6月23日金曜日
事柄を思索めぐらす者は少数で、それ以外の者は他の主張に思索するだけである。
著作に先立ってあらかじめ、真剣に考える少数の著作家の仲でも、事柄そのものについて思索をめぐらす者はきわめて少数で、それ以外の者はただ書籍について、他人の主張について思索するだけである。すなわち彼らが思索するためには他人の供給する思索が必要で、なまなましい強烈な刺激をそこに求めなければならない。このようなわけで他人の思想が直接彼等の関心をひくテーマとなり、絶えず借り物の思想に動かされ、その結果真の新機軸をうち出さずに終わってしまう。これに反して少数の中でも、さらにきわめて少数な著作家は、事柄そのものから思索の刺激をうけ、その思索に直接事柄そのものに向かう。このような人たちの間にのみ、永遠の生命をもつ著作家を見いだすことができるのである。もちろん今、私がここで論じたのは精神の尊厳をさまざまな角度から扱う著作家たちのことで、独創性は発揮しても刺激の強い安酒製造に専念する著作家は論外である。
アルトゥル・ショウペンハウエル「読書について」
2017年6月22日木曜日
市民である士は武器で国家防衛に参加と義務を有し、戦国時代から国都での軍士の集団を意味した。
市民というのは、中語でいうところの「士」の階級にあたるものをさす。士とは要するに武器をとって国家防衛に参加する義務と権利を有する装丁の謂で、上古には貴族の子弟に限られた者が、戦国時代から各国の国都における軍士の集団を意味し、秦漢時代には広く全国の農民までも含むに至ったものである。司馬遷の『史記』は実に中国において最初に、かかる市民を歴史記述の対象として取り上げ、出色の文字とされる「列伝」を書き上げたのである。このことは彼が、社会なるものは単に君臣関係からばかりで成り立つものではなく、時にはそこからはみ出した市民の生活によって支えられている事実を認識したものに外ならない。列伝に散見する個人の興味ある逸話等は、彼自身が採訪した独特の史料によるもので『史記』は言わば足で書いた歴史ともいえるであろう。そこに『史記』の歴史としての価値が存在する。
しかし司馬遷は歴史を、君主と官僚との君臣関係、及びそれを支える市民という個人に還元することで能事了れりとはしなかった。君主も官僚も市民も、その時々の社会制約の中で生活する。そこには制度があり経済があり道徳があり文化がある。司馬遷はこれらの社会的規範を「礼書」、「楽書」などの八書にまとめた。もちろんその内容は今日から見て甚だ不十分であるが、その意図は十分に汲みとられるち思う。中国の市民生活は漢代を頂点として以後は下り坂にむかう。そしてその後、六朝時代に現れたのは「士族」と称する特権貴族階級である。中国の歴史もそれにつれて、貴族の盛衰を中心に記述されるようになった。
宮崎 市定「中国文明論」
2017年6月21日水曜日
国家は常に同一の状態にとどまるものであり、維持すればよく、増大も有益どころか有害である。
政府が、その基礎を著しく異にする家政に、どうして類似しうるであろうか。父親は子供達よりも肉体的に強力であるから、彼の助力が子供達に必要であるあいだは、父権は自然によって打ちたてられたものと正当にも見なされる。すべての成員が自然に平等である国家においては、政治権力は、その成立に関するかぎり純粋に恣意的なものであって、契約にもとづいてのみ基礎づけられるに過ぎず、役人は、法によらずしては、他人に命令することができない。子供達にたいする父親の権力は、子供達の特殊利益に基礎をおくものであって、その本性上、生や死の権利にまで及ぶものではない。ところが、主権は、特殊利益に基礎をおくものであって、その本性上、生や死の権利にまで及ぶものではない。ところが主権は、共同利益以外の何らの目的をもたないから、すでに諒解ずみの公共の利益以外の何らの制限をもたない。
首長は、人民に対して首長が行うことを約束した事柄、すなわち人民がその実行を要求する権利をもつ事柄、についてのみ人民に義務をもつに過ぎない。一般行政は、自らに先行する個人財産を保証するためにのみ樹立される。国家の富は、しばしば非常に誤解されているが、諸個人を平和と富裕のなかに保つための一つの手段でしかない。国家は常に同一の状態にとどまるべく作られたものであり、維持すればよいばかりでなく、いかなる増大も有益どころか有害であることは容易に立証しうるところである。
ジャン・ジャック・ルソー「政治経済論」
2017年6月20日火曜日
キリストは神に従順のために正義を守りたまうため戦死を招かれた。
神はキリストに死ぬことを強制せられたのではないのだ、キリストには毫末も罪はなかったのだから。だが、御自身で自発的に死を受けたまうのだ。それは従順によって生命を捨てたまうためではなく、卻って従順のために正義を守りたまうためであった、キリストは極めて強くその正義を守り通されたので、そのため、終に、死を招かれたのだ。
そのうえ更に、聖父が彼に死ぬことを命じたまうのだと言うこともできるだろう、彼が死を招くに至ったその原因は、聖父が命じたまうことなのだから。そういう訳で、「父の彼に命じたまうところに遵ひて、彼は行った」のであるし、また「父の彼に賜ひたる杯を」彼は飲み、「死に至るまで父に従順なるものとなりたまひ」、且つ「受けたまひし苦によって従順を学びたまうた」のである、即ち、いつまでも従順をまもらなければならないかを学びたまうたのである。
卻って、それは、キリスト御自身が己を聖父と聖霊とにひとしくしたまうて、死による以外の道で、己が全能の気高さを世に示さうとは為したまわなかったからである。というのは、あの死による以外には、為されることのできなかったことが、死によって為されたのであるから、あの死によって為されたと言っても、不適当ではないであろう。
聖アンセルムス「クール・デウス・ホモ(神は何故に人間となりたまひしか)」
2017年6月19日月曜日
一切の奴隷制度は人種と場所による遺伝と気候という二個の基本的条件のみに左右されると誇った。
一切は人種と場所、換言すれば遺伝と気候という二個の基本的条件に左右されるのであるが、更にこれをアメリカ合衆国の南部と北部との対照について見るに、その気候の及ぼす影響は一層大きいようである。奴隷制度が北部に繁栄するに至らなかった理由は、最も敬神的なる清教徒達ですら奴隷を有していたのであるから、それに対する道徳的反対のあったためではなく、むしろ気候の関係上諸制度が不利益であったからである。不断の刻苦勉励によらなければ生活を維持することのできぬような気候であって、かつ白人が異常の努力をしている所において、奴隷を養うことは経済上収支償はなかったのである。
けだしかかる能力不十分な奴隷の労働では、その身を養うことすらできなかったので、その主人の利益とはならなかったからである。これに反して南部においては能率の低い黒人の労働すら、その身を養って尚あまりある生産をなしていたから、奴隷制度は有利であった。加うるに南部の白人は精励せず、その肉体労働は黒人のそれよりも大して価値あるものではなかったから、彼らは勢いその優秀なる頭脳を使用するに止め、肉体的労働は黒人をしてこれにあたらしめる習慣を作るに至った。もし清教徒がジョージア州に居住していたとしても、恐らく彼等は肉体労働を軽蔑し、奴隷所有者たることを誇りとするに至ったのであろう。
エルズワース・ハンチントン「気候と文明」
2017年6月17日土曜日
絶対静止空間は不要であり、絶対静止という概念に対応するような現象はまったく存在しない。
光を伝える媒質に対する地球の相対的な速度を確かめようとして、結局は失敗に終わったいくつかの実験をあわせて考えるとき、力学ばかりでなく電気力学においても、絶対静止という概念に対応するような現象はまったく存在しないという推論に到達する。いやむしろ次のような推論に導かれる。すなわち、どんな座標系でも、それを規準にとったとき、ニュートンの力学の方程式が成り立つ場合、そのような座標系のどれから眺めても、電気力学の法則および光学の法則はまったく同じであるという推論である。この推論の1次の程度の正確さで、既に実験的にも証明されている。そこでこの推論をさらに一歩推し進め、物理学の前提としてとりあげよう。
また、これと一見、矛盾しているように見える次の前提も導入しよう。すなわち、光は真空中を、光源の運動状態に無関係なひとつの定まった速さcをもって伝播するという主張である。静止している物体に対するマックスウェルの電気力学の理論を出発点とし、運動している物体に対する、簡単で矛盾のない電気力学に到達するためには、これら二つの前提だけで十分である。ここに、これから展開される新しい考え方によれば、特別な性質を与えられた絶対静止空間というようなものは物理学には不要であり、また電磁現象が起きている真空の空間のなかの各点について、それらの点の絶対的静止空間に対する速度ベクトルがどのようなものかを考えることも無意味なことになる。このような理由から光エーテルという概念を物理学にもちこむ必要のないことが理解されよう。
アルベルト・アインシュタイン「相対性理論」
2017年6月14日水曜日
戦争は、一般の理解はまだ荒々しく、常に廻り会う悲哀は、歴史観が心もとなく、立場が多く曖昧である。
工芸のことに関しては、一般の理解はまだ荒々しいものに過ぎない。残念なことに多くの人たちは、日々一緒に暮らす器物には、そう深く注意してくれない。始終身の廻りにある平凡な品物の領域であるから、それから真理問題を汲み取ろうとする人はほとんどいない。ましてそこに美の法則を見出そうとは考えてはくれない。もっとも私たちは今無数の醜いものに囲まれている。だから美の問題を身近くに考える機縁が乏しいのだともいえる。それに美のことなら、高く深い美術の領域が思い出される。これに比べれば工芸の世界など凡庸なものに映るであろう。だからこそそこに真理を探る人が少ないのも無理はない。だが日々の実用に使うという性質が、そんなにも美と遠いものだろうか。当たり前なものということは、そんなにも省る必要のない性質だろうか。
工芸史家はどうであろうか。私たちは彼らの調べた歴史的委細から教わるものは些少でない。だが私たちが常に廻り会う悲哀は、彼らに知識があっても直感が乏しいことである。その証拠には彼らはしばしば美しいものと醜いものとを同じように賞める。玉石の判断がなかなかつかないと見える。だから記録は便りになるとしても、歴史観は心もとない。結局工芸への正しい理解の持ち合わせがないのである。特に工芸美に関する点に来ると立場は多く曖昧である。だが歴史家に価値認識が乏しいことは致命的ではないか。ただ史料に依る記述は工芸史観を産まない。
柳 宗悦「工芸文化」
2017年6月13日火曜日
自分自身の魂をゆだねるべきか否かを、いろいろと思案を重ねないことだろう。
自分がいま、魂をどのような危険にさらそうとしているかがわかっているのかね? かりにもしこれが、君が身体を誰かにゆだねて、身体がよくなるか悪くなるかの危険をおかさねばならないというような場合だったとしたら、君はきっと、その人にゆだねるべきか否かを、いろいろと思案を重ねたことだろうし、また、何日も何日も考えながら、友人や身内の者の助言を求めたことだろう。しかるに、君が身体よりも大切にしているこの魂というもの、君のすべての幸不幸はそこにかかり、それが善くなるか、悪くなるかによって左右されるところのもの、そういうものについては、君は父親にも、兄弟にも、またわれわれ仲間の誰ひとりにも、ほかならぬこの君の魂をあの新米のよそ者に、ゆだねるべきか否かを、相談しなかったのかね。
君の話によると、昨夜このことを耳にするや、夜明けを待たずにとんできて、君自身をあの男にゆだねるべきかどうかということについては、一言も語らず、相談もせず、そして自分の金ばかりか、友達の金まで注ぎこんでもかまわぬつもりになっているのかーまるで何が何でもプロタゴラスにつかなければならないと、もうすっかり決め込んでしまったかのように! そのプロタゴラスという人を、君は知りもしなければ、まだ一度も話をかわしたこともないと言う。ただソフィストと名づけるだけで、ソフィストとはそもそも何ものであるかについては、明らかに君は知らずにいながら、何もわかっていないその人に、君自身をゆだねようとするのか。
プラトン著「プロタゴラスーソフィストたち」
2017年6月12日月曜日
戦争の如き、その最中には実に修羅の苦界となれども、平和に帰すれば禍を転じて福となし。
政治固有の性質にして、その働の急激なるは事実の要用においてまぬかるべからざるものなり。その細目にいたりては、一年農作の飢饉にあえば、これを救うの術を施し、一時、商況の不景気を見れば、その回復の法をはかり、敵国外患の警を聞けばただちに兵を促し、事、平和に記すれば、また財政を修むる等、左顧右視、臨機応変、一日片時も怠慢に附すべからず、一小事件も容易に看過すべからず。政治の働、活発なりというべし。
政治の働きは活発なるがゆえに、利害ともにその痕跡を遺すこと深からず。たとえば政府の議定をもって、一時租税を荷重にして国民の苦しむあるも、その法を除くときはたちまち跡を見ず。今日は鼓腹撃壌とて安堵するも、たちまち国難に逢うて財政にくるしめらるるときは、たままち艱難の民たるべし、いわんや、かの戦争の如き、その最中には実に修羅の苦界なれども、事、平和に帰すれば禍をまぬかるるのみならず、あるいは禍を転じて福となしたるの例も少なからず。
福沢諭吉、政治と教育と分離すべし「福沢諭吉教育論集」
2017年6月7日水曜日
神も天も諸物体も虚偽であるも「我思惟す故に我あり(ego cogito, ergo sum) 」は最初の最も確実な自由である。
我々は、以前に最も確実と考えていた他のことについても疑うであろう、即ち、数学的証明についても、また今まで自明と信じていた諸原理についても。なぜならば、かつて幾人かの人が、かようなことにおいて誤りを犯し、我々には誤りと思われたことを、最も確実で自明的だと認めていたようなことを、我々は知っているし、またとりわけ、一切を為すことができ、かつ 我々をも創造した神が、存在することを聞いているからである。というのは、我々が自分に最も明白に見えることにおいてさえ、いつでも思い違いをするような工合に、神が我々を創造しようと欲しなかったかどうかは、我々にはわからないであろう。なぜならそうしたことが起こり得たことは、我々が前に気付いていることだが、我々が時に思い違いをすることがあるのに劣らず、あり得ることだからである。そして我々が全能の神によってではなく、我々自らによってか、或いは何であれ他のものによって存在するのだと創造するならば、そうした我々の創造者の力を小さく見積もれば見積るほど、我々がいつも思い違いをするほど不完全だということも、いっそう信じ得ることであろう。
我々が何らかの仕方で疑い得る一切のことを斥け、かつ虚偽であると考えることによって、我々はなるほど神も天も諸物体も存在せず、また我々自ら手も足も、そしてついには身体をも有しないと創造することは容易であろう。しかしその故に、かようなことを思惟する我々が、無であるとは創造することはできない。というのは思惟するものが、思惟しているその時に存在しないことは不合理だからである。それ故に、「我思惟する故に我あり」(ego cogito, ergo sum)というこの認識は、一切の認識のうち、誰でも順序正しく哲学する人が出会う最初の最も確実なものなのである。
ルネ・デカルト「哲学原理」
2017年6月6日火曜日
強い戦闘的天性は抵抗するものを必要とし求め、敵と対等が決闘の前提である。
戦いとなると、話は別である。わたしはわたしの本性上戦闘的である。攻撃することはわたしの本能の一つである。敵となりうること、敵であることーこれはおそらく強い天性を前提とする。いずれにせよ、これは、すべての強い天性の所有者に起ることである。こういう天性は抵抗するものを必要とする、従って抵抗するものを求める。攻撃的パトスが強さに必然的に伴うものであることは、復讐や遺恨の感情の弱さに伴うのと同断である。
攻撃する者の力の強さを測定するには、彼がどんな敵を必要としているかということが一種の尺度となる。ひとの成長度を知るには、どれほど強力な敵対者をーあるいは、どれほど手強い問題を、求めているのかを見ればよい。つまり、戦闘的な哲学者は、問題に対しても決闘を挑むのである。その場合かれがめざすことは、抵抗するものに勝ちさえすればいいというのではなく、おのれのもつ力と敏活さと武技の全量をあげて戦わねばならないような相手ーつまり自分と対等の相手に打ち勝つことである。・・・敵と対等であることーこれが誠実な決闘の第一前提である。相手を軽視している場合、戦いということはありえない。相手に命令をくだし、いくぶんでも見下している場合には、戦うにはおよばない。
フリードリヒ・ニーチェ「この人を見よ」
2017年6月4日日曜日
残忍な聖書は殺戮をやめず、ヨブ記は不義の源であり、人間は死んで眠る。
聖書、すなわちこの残忍な書は、殺戮をやめなかった。「ヨブ記」は涸れることのない不義の源である。霊からなるものは涸れることはない。読みた合わせて楽しんでいる。ヨブの友人たちはヨブに諦めるように勧める。彼はそれを自分自身に勧めている。どうやって神と戦うというのか。どうやって神を訴えるというのか。このような霊に対する崇拝、すなわち外に立ち、怒っている、仮借なき、抗えない霊に対する崇拝は、おそらく本質的に偶像崇拝である。なぜなら、フェティシストたちは多くの神がいることでーある神が他の神に勝利するといことでー慰められ希望をもっているから。これらのナイーヴな空想は、人間の置かれている現実の状況をうまく表している。なぜなら、さまざまな事物があることによって、すべてに救いがあることになるから。
しかし、唯一の神、霊であると同時に力である神。それは観念だけで、圧倒する、殺戮する。ヨブは金持ちであった、しあわせであった。友人たちがいた。突然、彼は貧乏な者となり、病気になり、人から見捨てられている。それはヨブにとって、当然のことのように見えている。この偉大な宇宙、われわれよりもはるかに力の強い宇宙は、ヨブの眼には、決意をもった一人の人間がその小さな指を動かしただけでは粉砕できない、変更できないものであった。たしかに、この世界は「霊」なのだ。この世界のすべて、一物から、ただ一つの意志からなっているのだ。その時、人間は眠っている、死んでいる。
アラン (エミール・オーグスト・シャルティエ)「四季をめぐる51のプロポ」
2017年6月3日土曜日
開花した諸国民に重くのしかかる最大の害悪が戦争に由来する。
我々は、開花した諸国民の上に重くのしかかるところの最大の害悪が、戦争に由来することを認めざる得ない、しかもそれは、現に行われている、或いは過去に行われた戦争の結果と言うよりは、むしろ将来の戦争のための軍備ーそれも永久に軽減されることのない、それどころか不断に増大しつつある軍備によって引き起こされるのである。実に国家の一切の力、その国の文化の一切の成果は、このことのために費やされているのであるが、しかしこれらの諸力や成果は、軍備のことさえなかったなら、更に大なる文化の創造のために用いられ得るところのものなのである。自由は、諸方において著しく阻害されているし、また本来ならば国家が個々の国民に致すべきいつくしみ深い配慮は、国民に仮借なく課せられる苛酷な要求に化している、しかもこの過酷さは、実に外寇の危険をおもんばかっての措置として是認されて居るのである。
とはいえ諸国の文化にせよ、或いは公共体を形成する諸階級が緊密に結束して彼等の福祉を互いに促進し合うための協力にせよ、或いは植民にせよ、或いは法律による厳しい制限にも拘らずなお残されているほどの自由にせよ、これらのものがとにかく存在しているのは、常に忌み憚られている戦争そのものが諸国家の主権者を強要して人間性の尊重を止むなく認めざる得なくしたためにほかならないのである。
イマニュエル・カント「人類の歴史の憶測的起源」『啓蒙とは何か他四編』
とはいえ諸国の文化にせよ、或いは公共体を形成する諸階級が緊密に結束して彼等の福祉を互いに促進し合うための協力にせよ、或いは植民にせよ、或いは法律による厳しい制限にも拘らずなお残されているほどの自由にせよ、これらのものがとにかく存在しているのは、常に忌み憚られている戦争そのものが諸国家の主権者を強要して人間性の尊重を止むなく認めざる得なくしたためにほかならないのである。
イマニュエル・カント「人類の歴史の憶測的起源」『啓蒙とは何か他四編』
2017年5月31日水曜日
苦しみを不断につつづけさせ、不断に新たな苦しみをかきたてるように、たえず新たな攻撃を加える。
あらゆる方法で憎悪心をとぎすましながらも、わたしの迫害者は、そのはげしい憎悪のためにかえってひとつの方法を忘れていた。それは、効果をだんだんとつよめていき、わたしの苦しみを不断につつづけさせ、不断に新たな苦しみをかきたてることができるように、たえず新たな攻撃を加えるということだった。もしもかれらが巧妙に、いくらかでも希望の光を残しておいてくれたなら、それによっていまでもわたしを捕らえていたにちがいない。なにか好餌をもってさらにわたしをなぐさみものにしたうえ、すぐにわたしの期待を裏切って、また新しい苦しみをあたえ、わたしを悲嘆に暮れさせることもできたろう。
ところがかれらは、初めからあらゆる手段を使いはたしてしまった。わたしはなにひとつ残しておくまいとして、自分たちもいっさいすることがなくなってしまったのだ。かれらがわたしに浴びせかけた罵詈、誹謗、嘲笑、汚辱の雨は弱まることはないにせよ、いっそう激しくなることもありえない。かれらは、それをさらに重大なものとすることはできないのだし、わたしはそれからのがれることはできない。どちらも同様に打つ手がない。かれらはあまりにも性急にわたしを不幸のどん底に追い込もうとしたために、いまでは人間に可能なかぎりのことをして、地獄のあらゆる狡知の助けをかりようとも、このうえできることはなにひとつなくなっている。肉体的な苦痛をあたえるとしても、それはわたしの苦悩を増すことなく、かえって苦悩忘れさせてくれるだろう。悲鳴をあげさせるかもしれないが、嘆息する機会は少なくしてくれるだろうし、身体の痛みは心の痛みを忘れさせてくれるにちがいない。
ジャン・ジャック・ルソー「孤独な散歩者の夢想」
2017年5月27日土曜日
戦争の義務は、個人の意志ではなく道徳的法則に対する尊敬の念にて為す行為の必然性である。
義務とは道徳的法則に対する尊敬の念にもとづいて為すところの行為の必然性である。私の意図する行為の結果であるところの対象には、なるほど傾向をもつことはできるが、しかしとうていこれに尊敬を致すことはできない、かかる対象は意志から生じた結果にすぎないのであって、意志そのもののはたらきではないからである。同様に私は、傾向性一般をーそれが私の傾向であると、他人の傾向を問わず、ー尊敬することはできない、もしそれが私の傾向性であれば、ただこれを傾向として認めるのが精々だし、また他人の傾向であれば、それが私自身の利益に役立つ限り、時にこれを喜ぶことさえあるだろう。
それだから結果としてではなく、あくまで根拠として私の意志と固く連結しているところのもの、私の傾向性に奉仕するのではなくてこれに打ち克つところのもの、少なくとも対象を選択する際の目算から傾向性を完全に排除するところのもの、すなわちーまったく他をまつところのない法則自体だけが尊敬の対象であり得るし、また命令となり得るのである。そこで義務にもとづく行為は、傾向性の影響を、また傾向と共に意志のいかなる対象をも、すべて排除すべきであるとすれば、その場合に意志を規定するものとして意志に残されているところのものは、客観的には法則だけであり、また主観的にこの実践的法則に対する純粋な尊敬の感情だけである。従ってまたいっさいの傾向を廃してかかる法則に服従するところの格律である。
イマニュエル・カント「道徳形而上学言論」
2017年5月23日火曜日
戦乱干戈の間にして創建し、太平の余化より出でし盛挙に及ぶの暇あらんや。
かへすがへすも翁は殊に喜ぶ。この道開けなば千百年の後々の医家真術を得て、生民救済の洪益あるべしと、手足舞踏雀躍に堪へざるところなり。翁、幸ひに天寿を長うしてこの学の開けかかりし初めより自ら知りて今の如く隆盛に至りしを見るは、これわが身に備はりし幸ひなりとのみいふべからず。伏して考ふるに、その実は恭く太平の余化より出でしところなり。
世に篤好厚志の人ありとも、いづくんぞ戦乱干戈の間にしてこれを創建し、この盛挙に及ぶの暇あらんや。恐れ多くも、ことし文化十二年乙亥は、二荒の山の大御神、二百とせの御神忌にあたらせ給ふ。この大御神の天下泰平に一統し給ひし御恩沢数ならぬ翁が輩まで加はり被むり奉り、くまぐますみずみまで神徳の日の光照りそへ給ひしおん徳なりと、おそれみかしこみ仰ぎ猶あまりある御事なり。
杉田 玄白「蘭学事始」
2017年5月22日月曜日
寡頭政治の世の中は同罪の死刑に巻き込む様なことを命じる。
まだ国家に民主政治が行われている頃に起こった事である。しかるに寡頭政治の世となったとき、「三十人」はまたもや私を他の四人と共に円堂に召喚してサラミス人レオンをサラミスから、死刑に処せんがために連れて来ることをわれわれに命じた。彼らは、できる限り多くの人を自分達と同罪に巻き込まんとして、他の多くの人々にもしばしば同じ様なことを命じたのである。
その時にもまた私は、言葉によってではなく、実行によってーもしこういういい方があまり粗野に失しないならばー自ら死は寸毫も顧慮しないが、これと反対に、不正と瀆神の行為を避けることは何よりも重視する者であることを証示した。あれほど強大な権力を持っていた政府も、私を威嚇して何らの不正も行わしめることができなかった。そうして私達が円堂を出てから、他の四人はサラミスへおもむいてレオンを連れてきたが、ひとり私は家に帰ってしまったのである。もしある政府がその後に、追いかけて崩壊しなかったら、恐らく私はそのために生命を失っているに違いない。またこの事については多くの人が諸君に証言するであろう。
プラトン「ソクラテスの弁明」
2017年5月20日土曜日
戦争は知覚されることであり、知覚されることを抜きにして戦争は存在しない。
平明な常識の大道を歩んで自然の訓えに支配される無智な人類大衆は、概ね安穏で心を錯乱されていない。この人たちにとっては、馴染みのものはすべて、說明が不可能ではないと思われ、了解に困難でないと思われる。その人たちは、感官が明証を欠くという不平を少しも言わなく、懐疑論者になる危険性は全くない。
しかるに、私たちが感官と本能を去って、一そう優った理知の原理の光に隋うや否や、すなわち事物について推測し、静思し、省察するや否や、以前には遺漏なく了解したように見えた事物について、百千の懐疑が心に湧き起こるのである。感官の偏見と過誤とはあらゆる方面から姿を現わして、私たちに視えてくる。そして、こうした偏見や過誤を理知によって訂正しようと力めながら、私たちは知らず識らずに奇怪な逆説や難問や撞着に陥る。この逆説や難問や撞着は、私たちが思索を進めるにつれて累積し、成長して、ついに、多くの錯綜した迷い路をさまよったすえ、私たちは、自分がちょうど前にいた所にいるのを見出すか、あるいはなお悪いことには、寄る辺ない懐疑のうちに座り込むのである。
ジョージ・バークリ「人知原理論」
2017年5月17日水曜日
死の教えを心から憶念することはなんという喜び!
一切の生は死という本質にある。
永遠の生命を得たならば怠惰の中になり、
欲望は果てしなく湧き起こる。
無益に一生を費やすことなく、
死の教えを心から憶念することはなんという喜び!
あらゆる財力や権力を幻の王国と見る一方で、
慢心や自尊心、快楽を貪る心や虚栄心を起こすことなく、
それらがどれほど無益かを知る智慧をもち、
出離の意志を貫くことは何という喜び!
いかなる名声であっても、それはすべてはあたかもこだまの響き。
さまざまな言葉で賞賛されるようになるまでのこと。
それは悪い種子が捨てられ非難されるようになるまでのこと。
靜寂の中で、マントラの中でそれを悟ることは何という喜び!
分別という悪しき執著が敵となり、さまざまな心が湧き起こる。
この心の本性を、真の法身を知り、
さまざまな事象を識別し、無作の法身を知るとこは何という喜び!
ユトク・ニンマ・ユンテン・グンポ
「ユトク伝ーチベット医学の教えと伝説」
2017年5月14日日曜日
分子集合である有機体制の生命の活動は死により停止される。
有機体制の活動、すなわち内型の力が死によって停止せしめられると、体の分解がこれに続行する。しかし、有機分子は依然として残存し、体の解体と腐敗において釈放され、他の内型の力によって接収されるや否や別の生物体内に移行する。言わば、有機分子なるものは、毫も変化することなく、生物体に栄養と生命とをもたらす永劫不易の性質を保持しつつ、動物体より植物体へ、または植物体より動物体へと移行しうるのである。
ただ、内型の力が無力である合間には、すなわち有機分子が分解した死体の物質内で開放され、しかもそれが動植物の普通の種を構成する有機体によって吸収されるに至らない合間には、無数の自然発生が生起する。つねに活動的である有機分子は腐敗した物質に衝動を与えようと努め、この物質から原質粒子を獲得し、これらの粒子の再結合によって無数の小さい有機体を生成する。
この有機体の或ものは、みみずやきのこなどのごとく相当大きい動植物として出現するが、他のものは顕微鏡によってはじめて観察しうるほど小さく、数はほとんど無限である。これらのすべてのものは自然発生によってのみ存在し、生命ある単純な有機分子と動植物の間の間隙を埋めている。
ルイ・パストゥール「自然発生説の検討」
2017年5月7日日曜日
意志によって世界は全体として別の強弱の世界へと変化する。
意志によって世界は全体として別の世界へと変化するのでなければならない。いわば、世界全体が弱まったり強まったりするのではなければならない。
幸福な世界は不幸な世界とは別ものである。
同様に、死によっても世界は変化せず、終わるのである。
死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。
永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。
視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、終わりをもたない。
人間の魂の時間敵な不死性、つまり魂が死後も生き続けること、もちろんそんな保証はまったくない。しかしそれ以上に、たとえそれが保証されたとしても、その想定は期待されている役目をまったく果たさないのである。いったい、私が永遠に行き続けたとして、それで謎が解けるとでもいうのであろうか。その永遠の生もまた、現在の生と何ひとつ変わらず謎に満ちたものではないか。時間と空間のうちにある生の謎の解決は、時間と空間の外にある。ここで解かれるべきものは自然科学の問題ではない。
世界がいかにあるかは、より高い次元からすれば完全にどうでもよいことでしかない。神は世界のうちには姿は現しはしない。
ルートヴィヒ・ウィトゲンスタイン「論理哲学論考」
2017年5月6日土曜日
武器は敷物に野営し戦死を気にかけず注意を集め誉めて受け継ぐ
子路が強さについておたずねした。先生はいわれた、「南方の強さのことかね、北方の強さのことかね。それともお前の得意とする強さのことかね。心やたかな柔らかさで人びとを教え導き、でたらめな相手にもこちらの節度を守ってしかえしをしたりはしないというのが、南方の強さである。君子の行動はそれによっている。
武器や甲・冑を敷物にして野営をかさね、戦死することも気にかけないというのが、北方の強さである。お前の考える強者はそれによっているのだ。
そこで君子は、もの柔らかく人びとと和合しながら、しかも節度を曲げて人に流されるようなことはない、しっかりとして強いことだ。中正の立場に直立して少しも偏らない、しっかりとして強いことだ。国じゅうに道徳が行われてその身が栄達したときも油断なく平生の節度を変えることはない、しっかりとして強いことだ。国じゅうに道徳が行われないで困窮したときも死ぬまでその心がまえを改めない、しっかりとして強いことだ。」
先生はいわれた、「わかりにくいはっきりしないことをむりにさぐり出したり、風変りな奇怪なことを行ったりすると、人の注意を集めて、後の世にそれを誉めて受け継ぐものも出るだろう。だが、わたしはそういうことはいない。君子は道を規準として行動するものだ。たとえ力及ばず途中で挫折することがあるにしても、わたしには道を守るのをやめることはできない。君子は中庸に依りそってゆくのである。世間に背を向けて隠遁し、だれにも知られずに終わっても悔いることがないというのは、これはただ特別の聖者だけにできることだ。それもわたしの望むことではない。」
「中庸」第2章第4節(朱子) 曾参・子思『大学・中庸』
2017年5月5日金曜日
平和とは戦争とは何か。
平和、それは、一政治社会が享有するー国内では、その成員間によき秩序が支配することによって、国外では、互いによく和合しあって他の諸人民と共生することによって享有するー安寧である。
戦争は、人間の腐敗の果実であり、政治体のけいれん性の重病である。政治体は、平和を享有するときにのみ、健康状態、すなわちその自然状態にある。国家に力をあたえるのは平和である。平和は、市民のあいだに秩序を維持し、法律に必要な力をあたえ、人口増加、農業、商業を促進する。一言でいえば、平和は、すべての社会の目的である幸福を人民に得させる。
戦争は、これに反して、国家の人口を減少させ、国内に無秩序を支配させる。戦争がもたらす放縦にたいしては、法律は沈黙を余儀なくされる。戦争によって、市民の自由と財産は不確実となり、商業は混乱し等閑にふされ、土地は耕されず放棄される。いかなる国家であろうと、もっと目ざましい勝利でも、戦争の犠牲となった多くの成員の損失の埋め合わせをつけることは決してできない。その勝利そのものの国家にもたらす重傷をいやし得るのは、平和のみである。
ダミラヴィル「平和 Paix」
ドゥニ・ディドロ、ジャン・ル・ロン・ダランベール『百科全書』
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